鹿児島県立大島病院 救命救急センター センター長 服部 淳一先生|DOCTORY(ドクトリー)

ドクターヘリは奄美の空へ。
自衛隊医官時代のノウハウを生かし、
最高の離島救命救急センターを築きたい。

鹿児島県立大島病院 救命救急センター
センター長
服部 淳一先生

「我慢する必要はない。その代わり努力しなさい」なる金言に後押しされる人生

服部氏の人生訓について。今年7月で93歳になった祖母に、大きな影響を受けたという。
「祖母は没落した地主の娘で、終戦時に命からがら満州から帰還するような苦労もしています。北海道に移り住んでからは、事業欲も旺盛で、様々な仕事から様々な経験を得た。とても魅力的で尊敬できる人でした。そんな祖母は私をとてもかわいがってくれ、私も祖母の影響を大きく受けました。そして、彼女から折に触れてかけられた言葉が、『我慢する必要はない。やりたいことをやれ。その代わり、努力しなさい』でした。
私の行動規範の中心部には、その言葉が生きていると思います」

医局間移籍というレアな事例。誰もが驚く選択と決定に、当事者のいだく感慨は

2015年、JICA地域研修における講義。
当院ヘリポートにて
2015年、JICA地域研修における講義。
当院ヘリポートにて

服部氏は自衛隊所属時代から札幌医科大学とは接触があり(自衛隊医官は、研修のために自衛隊外の教育機関や医療機関に出向くことを許されている)、医官最後の4年間は札幌医科大学博士課程で学んでもいた。そんな縁もあり、退官後は札幌医科大学医局に入局。同医局で麻酔科医としての腕を磨きながら、医局人事で北海道内の関連病院勤務も経験した。

2008年に、服部氏は招聘に応じて、鹿児島県立大島病院に移籍した。
「奄美大島で離島医療に従事してみないかというお誘いに大きな魅力を感じました。海も綺麗ですし(笑)」
服部氏は現在、鹿児島大学医局の医局員として県立大島病院に勤務する。それは単なる勤務地変更ではなく、札幌医科大学麻酔科医局から鹿児島大学麻酔科医局への医局間移籍だったのである。
誘いに心動かされたので、我慢せずに移籍したわけである。しかし、ことは医局の移籍。実現に要した努力が並大抵でなかったことは、想像に難くない。また、移籍後の努力の決意も、ひときわ大きなものだったろう。

「『札幌医科大学の医局から移籍してきました』と自己紹介すると、多くの人が目を丸くして驚きます。『そんなこと、できるの?』と。それに関しては両医局の教授がともに寛大で、柔軟な方であったのが奏功したように思います。
実は、話がまとまりかけたところで、『人員補充の問題を解消するのに、1年の猶予がほしい』と札幌医科大学側から率直な条件提示があり、鹿児島大学側がそれを呑んでくださるという出来事がありました。出す側は出すことに得心しているので、台所事情を忌憚なく明かし、条件交渉をする。受け入れる側は、真剣に考えているからこそ、歩み寄る。率直な意見交換と柔軟な対応があって実現したこの移籍には、感じ入る点が多々ありました。
一言で言うなら、感謝。その2文字に尽きます」

実習生、研究医が集まる人気病院になった

2017年、日本臨床救急医学会総会・学術集会にて

ところで、祖母の金言は、服部氏を通じて次世代の医師にも伝承されている。県立大島病院は、服部氏が救急医療を立て直して以降、全国から実習生と研修医が集まる人気研修病院になりつつある。
「実習生や研修医に、医局選びに代表される進路についての相談を寄せられた際に、私は、祖母のあの言葉に沿った意見表明をします。『君は、行きたいところに行ける。やりたいことができる。大切なのは、選択の右左ではなく、そのための努力、選んだ後の努力だ』と。

鹿児島大学の教授にこのお話を何の気なしにしたら、『君は当大学の医局員なのだから、まずは当医局につなぎとめることを第一にね』と、やんわりお叱りを受けました(笑)。教授のお話ももっともですので、あくまで個人的意見として『我慢するな』、医局員としては医局に魅力を感じてもらえるよう努めているところです」

勤務した病院がより良くなるために、何でもしようという考え。

服部氏の移籍には、札幌医科大学から鹿児島大学への救急医療ノウハウの移植という側面がある。
「救急科講座の立ち上げで見れば、鹿児島大学は札幌医科大学に数年遅れて果たしています。日本全体で、大学医局が救急への注力を開始した時期でしたので、取り組みの早かった大学、遅かった大学の色合いがはっきりしていました。
私が札幌医科大学で学んだ救急に関する知識は、鹿児島大学や県立大島病院では大いに生きたと実感しています」

県立大島病院での服部氏への期待は、麻酔科再建、救急医療再建にとどまらなかった。
「院長に意見を求められましたので、『この県立病院を急性期病院として歩ませるのか、慢性期病院としていくのかを、まずはっきりさせませんか』との意見書を提示するところから始めました。
そこで急性期病院という方針を明示してもらい、次いで、救急の立て直しのため、手術室の再建を手がけました。システムとスタッフを再構築し、年間1,000件だった手術件数を1,800件にまで増やすことに成功。その頃には、救命救急センターの計画の予算が議会を通過し、いよいよ建設計画が本格化しました」
そんな月日を通して、地元への理解と愛着も深め、冒頭に記したように「奄美で病気になったのだから、諦めよう」を乗り越えたいとの使命感を強めていった。

ちなみに、救命・救急センター設立準備室長としては、離島のため入手しづらく割高なコンクリートの確保の可否に心を砕くような業務も率先して引き受けた。
「医師免許を取得して以降、私の中で一貫していた考えがひとつあります。それは、『勤務した病院がより良くなるためには、どんな努力も惜しまない』です。
新卒1年目の当時、まさか将来、コンクリートの心配をすることになるとは想像もできませんでしたが(笑)、その考えがあったせいで、まったく苦にはなりませんでした」

北から持ち込み南で育てた知識と知見を、再び北に持ち帰り展開してみたい。

ドクターヘリには、今でも自ら乗り込むことが多いという。病院の経営の未来を問われれば、国と県の医療政策の現在をすらすらと解説し、私見を示してくれる。現在では県庁や県議会にも多くの顔見知りがあり、折衝ごとがあってもすぐに糸口を見出せるという。離島での研修医の生活を気遣って、「麻酔科の領域である減圧症を学ぶため」と称して全員にスキューバダイビングのライセンスを取得させる施策を強行した折のエピソードを笑いながら披露してくれた。前述のコンクリート調達のくだりには、悲哀を感じる気持ちも湧くが、それ以上に業務遂行能力の高さに感服する。
なんて魅力的なのだろう。あえて、「総合」の意味を拡大し、こんなタイプの「総合医」も存在するのだなと素直に感動した。

「思い返せば自衛隊所属時代、下士官として部隊を統率する役割を与えられたり、イラク戦争への派遣部隊のための医事に関する企画書を策定させられたりした折、『もっと医学と医療を学びたいのに』と不満を感じた自分を愚かだったと思えます。
当時、無駄な周辺業務や意味不明の使命に思えた事柄を数多く経験したことが、すべて血になり肉になっている。
『レールに乗らない』医師人生を豊かに育てる底力を与えてもらったことが実感できます。『勤務した病院がより良くなるために』できることをする。その限界値が、比較的高かったことを誇りに思いますし、その力を与えてくれた自衛隊に感謝するばかりです」

将来展望について、聞いた。
「両親がいますので、将来、北海道に戻れればいいなと思っています。
また、奄美で経験し、培った地域医療に関するあれこれを、北海道で生かしてみたいという好奇心もあります」

自衛隊で学び、北海道で学んだ臨床と救急の力を携えて南の奄美に渡り、そこで培い育てた力を再び北に持ち帰り、展開する。なんとダイナミックで、心躍る企みなのだろう。そんなことを成し遂げる機会を与えられた数少ない医師が目の前にいる。この人物が、これまでもこれからも「レールに乗らない」医師人生を疾走する姿を思い描くだけで楽しくなってしま

2015年、新しい家族誕生。奄美にて3世代ビーグル、1代目は北海道から
2016年、龍郷町服部先生自宅にて。研修医、麻酔科、救急科ファミリーでのホームパーティー

PROFILE

鹿児島県立大島病院 救命救急センター センター長
服部 淳一先生

1995年4月~1997年3月
防衛医大附属病院、自衛隊中央病院、三宿病院にて卒後研修
1997年4月  陸上自衛隊真駒内駐屯地勤務
1999年4月  陸上自衛隊札幌病院勤務
2000年4月  札幌医科大学博士課程入学(自衛隊所属のまま入学)
2004年3月  自衛隊退職
2004年3月  札幌医科大学博士課程卒業
2004年4月  札幌医科大学麻酔学講座入局
2004年7月  広域紋別病院勤務
2007年1月  市立小樽病院勤務
2008年4月  鹿児島県立大島病院 麻酔科部長
2013年4月  鹿児島県立大島病院 救命・救急センター設立準備室長
2014年4月  鹿児島県立大島病院 救命救急センター長

(2017年5月取材)

RECENTLY ENTRY