諏訪中央病院 山中克郎先生|DOCTORY(ドクトリー)

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女神の前髪を掴み大成した総合診療医が、諏訪に庵を結び、成し遂げようとしている臨床医の本懐、そして地域医療。

諏訪中央病院 総合内科/院長補佐
(※2015年取材時)
山中 克郎先生

研究者への道を歩んだが、8年を経て、自分の中に「臨床への願望」があることを知る

最初の出会いは、医学部4年時に訪れる。
夏休みに、血液内科医の珠玖(しく)洋教授の研究室を見学した。珠玖氏は、ニューヨークのスローンケタリングがんセンターの留学から戻って来たばかりだった。
「とにかく、ものすごく、かっこよかった。2年間の臨床研修を終えたら、アメリカに行って珠玖先生のような研究者になろうと決意しました」

奇しくも、テレビドラマで憧れた「白血病を診る医師」になった。ただし、珠玖氏の後を追うとなれば、研究医になったはずなのだが……。
「8年間大学に籍を置き、研究し、学位を取得する中で、『外に出たい』、つまり『臨床で患者さんを診たい』という欲求が自分の中に湧いているのがよくわかりました」
医局に希望を出し、決まった勤務地は、名古屋市内の名城病院。たったひとりの血液内科医として勤務したが、血液内科にはほとんど患者が訪れず、他疾患の治療ばかりの日々が続いた。
「2年が経った頃、初めて急性白血病の患者さんが来ました。18歳の女性でした。私が主治医になり3ヵ月間、休み返上で治療に当たりました」
結論から言うと、この患者は奇跡的な回復をみせ、完治して退院していった。

ただ当時、同院には白血病に関して相談できる医師がいなかったため、すぐ近くにあり、血液内科医が多く在籍する国立名古屋病院(現:国立病院機構名古屋医療センター)に勉強に通った。
「血液内科の症例検討会に毎週参加させてもらいました。いつも最後に、私の症例報告をするのですが、ベテラン医師からのアドバイスがとても役に立ちました」

ちょうどそのころ、同院ではHIV診療を始めようとしていた。血液内科医の増員が必要だった。
名城病院から熱心な若い医師が勉強に来ていることを知った内科部長が、「君よかったら、うちに来ないか」と山中氏を誘う。それが、内海眞氏だった。次なる出会いである。

幸運の女神の前髪を掴むべきとの直感

1998年、国立名古屋病院に転籍。着任してそれほど時間も経っていないある日の夜、医局に残っていた山中氏に内海部長から電話が入った。
「山中君、アメリカに1年間留学して、総合診療を勉強してこないか」
当時、厚生省(当時)は臨床研修制度を大幅に見直し、プライマリ・ケアを中心とした幅広い診療能力の習得を目標と定めた。その教育のために必要な人材育成を始めようとしていたのだ。「総合診療」という分野で先行しているアメリカで若手医師を学ばせるため、留学制度を施行した。

基本的に、興味の持てる打診だった。ただし――
「行くかどうかは、翌朝までに決めてくれ」
唖然とした顔が、目に浮かぶ。

「でも、その瞬間、以前から好きだった言葉が頭をよぎりました。レオナルド・ダ・ビンチの言葉と言われています。『幸運の女神に出会ったら、必ず前髪を掴め』――彼女が振り向いてしまったら、後ろ髪は禿げていて、ないのだぞという金言です。
前髪を掴むべきだと直感しました」

生涯の師との出会い。持ち帰った財産のひとつは、「攻める問診」

1990年、リサーチフェローとして在籍したバージニア・メイソン研究所(アメリカ・シアトル) で。
1990年、リサーチフェローとして在籍したバージニア・メイソン研究所(アメリカ・シアトル) で。

一晩で決めろという無理難題を決めてみせると、次には留学先は自分で決めろという難題が待ち構えていた。ただ、ここで、それ以前に成立していた出会いが奏功する。短期の研修で勤務した国立国際医療センターで知遇を得た感染症の大家/青木眞氏を頼って相談すると、すぐに電話してくれたのである。

電話の相手は、“診断の神様”として高名なカリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)内科学教授のローレンス・ティアニー氏だった。インパクトの大きさという意味では、おそらく山中氏の人生最大の出会いである。
「受けた教えの絶大さは、言い出せばきりがありませんが、たとえば聴診。先生のもとで聴診法を学ぶと、聴診器は使っていましたが自分がそれまでまったくまともに音を聴けていなかったことを思い知らされました」

内科全般、しかも血液内科、循環器科、呼吸器内科、消化器科など、細分化された診療科にも詳しく、内科であればどんな疾患でも鑑別診断できるといわれる伝説的な臨床医。
「ティアニー先生には強く傾倒し、発せられた言葉はすべて書き取る意気込みでメモをとり続けました」
留学中のメモをさらに調べ直し講義ノートとして整理したものは、後に『UCSFに学ぶ できる内科医への近道』(南山堂)として出版されている。

ティアニー氏より伝承された鑑別診断法をベースに、山中氏は「攻める問診」を確立し、実践していった。「攻める問診」とは、問診の最初の3分間を勝負と心得て、まず患者の心を掴み、浮かび上がった鑑別診断をさらに絞り込むために行う積極的な問診法のことである。山中氏のもとでこのメソッドを学んだ多くの総合診療医が、その後全国に旅立っていった。

創意工夫が師よりの伝承を生かし、日本の総合診療科の礎をもたらした

1年間の留学を終え、国立名古屋病院総合内科の牽引者として帰国した山中氏だったが、同院での総合内科を軌道に乗せるには想像を超えた困難が待ち受けていた。当時、行政の旗振りもあって日本全国に一斉に立ち上がった総合内科は、すべからく同様の困難に遭遇していた。他科とのコンセンサスが、形成されなかったのである。患者の取り合い、あるいは押しつけ合い。成立して長い歴史がある臓器別の縦割りの概念が、役割分担として総合内科を組み入れることができないでいた。

ここでへこたれていたならば、山中氏にはまったく違ったキャリアが待っていたはずだ。しかし違った。困難を乗り切る新機軸となる着想を見出した。
「救急室というのは専門の先生方がまったく寄りつかないため、総合内科とはバッティングしません。救急を勉強すれば、そこでプライマリ・ケアを教育できるのでないかと考えました」
この創意工夫がなければ、ティアニー氏から伝授された最高峰の診断術も立ち枯れたことだろう。“スマイリー”のニックネームで親しまれる山中氏の柔和な物腰の裏にある、執念や情熱の熱さがうかがい知れる。

国立名古屋病院から名古屋医療センターと名称が変更された頃には、同院の救急・総合内科の評判は全国に広がっていた。

『死のその瞬間まで、臨床医でいたい』という思いを胸に、日々を歩む

山中氏の実績を評価し、准教授として招聘したのが藤田保健衛生大学だった。山中氏は、国立名古屋病院血液内科入職から数えて8年目の年に、転籍した。同大学では准教授を4年、教授を4年務めた。
「結果的に、私には8年周期のサイクルが巡ってくるようですね。諏訪中央病院での勤務も『まずは4年』、成し遂げたいと思っています。
現在の私には、『死のその瞬間まで、臨床医でいたい』という思いがありますから、できることならここでそんな瞬間を迎えたいものだと念じています。寿命にまつわることですから、どんなエンディングが待っているか想像もつきませんが(笑)」

病院見学の医学生に、ベッドサイドティーチングを実施する風景。
病院見学の医学生に、ベッドサイドティーチングを実施する風景。

現れた女神の前髪を逃さず、女神の愛情をたっぷりと受け取った気鋭の医師が、10数年後に諏訪に結んだ庵からは、どんな人烟(じんえん/炊事の煙)が立ち上ってくるだろう。時折、麓に近づき山を見上げてみたい。
最後に、後を追う若手医師たちへのメッセージを発してもらった。
「仕事も、勉強も、まずは楽しんで、前向きにいてほしいと思います。がんばっても評価してもらえない、取り組みがうまくいかないという局面もあるかもしれません。ですが、決して諦めないでください。そのがんばりは、必ずどこかで実を結ぶはずです。自分を信じることが何よりも大事です

PROFILE

諏訪中央病院 総合内科/院長補佐
山中 克郎先生

1985年  名古屋大学医学部卒業
名古屋掖済会病院 研修医
1987-1994年  名古屋大学大学院医学系研究科
1989-1993年  バージニア・メイソン研究所(アメリカ・シアトル) 研究員
1995年  名城病院
1998-2000年  国立名古屋病院 血液内科
1999-2000年  カリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)一般内科
2000年  国立名古屋病院 総合内科
2004年  国立病院機構名古屋医療センター総合診療科(組織変更による)
2006年  藤田保健衛生大学 一般内科/救急総合診療部 准教授
2010年  藤田保健衛生大学 救急総合内科 教授
2014年  諏訪中央病院 総合内科

(2015年12月取材)

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