諏訪中央病院 山中克郎先生|DOCTORY(ドクトリー)

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女神の前髪を掴み大成した総合診療医が、諏訪に庵を結び、成し遂げようとしている臨床医の本懐、そして地域医療。

諏訪中央病院 総合内科/院長補佐
(※2015年取材時)
山中 克郎先生

総合診療科の領域に「その人あり」といわれた山中克郎氏が、あっさりと教授職を辞して一臨床医として長野県の諏訪中央病院に転籍したことに驚かされた関係者も多いはず。山中氏は、残りの医師人生を地域医療に取り組み、臨床医として燃え尽きることを望んで大いなる転出を実行した。その思い、構想を肌で感じ、伝える使命を感じ、取材を申し入れた。

救急総合内科の立役者たる教授が、一診療科スタッフとして転籍した理由は

2014年12月、藤田保健衛生大学救急総合内科教授の山中克郎氏は教授職を辞して、長野県茅野市・原村・諏訪市の組合立である諏訪中央病院に転籍した。救急総合内科は2010年に山中氏が立ち上げた講座で、ER救急と総合内科を融合させた臨床と教育で目覚ましい成果をあげていた。そんな気鋭の講座の要の人物が、あっさりとポジションを離れ地域医療に身を投じたいきさつには多くの関係者が驚きの声をあげた。
「55歳を迎えた自分が第一線でバリバリと活躍できるのは、あと10年くらいだろうか。振り返れば、病棟総合診療、救急医療、外来診療という3つの分野は経験してきたが、もうひとつの大切な総合診療領域である『地域医療』はまだ経験していなかった。そう気づいたとき、医師として残りの人生を賭け、地域医療の充実に取り組みたいという結論に達したのです」

本人は、特別なポジションなしで一総合内科医師として勤務することを望んだが、病院から贈られた院長補佐の肩書きを固辞することもなかった。
「副院長と間違われることもありますが、そのポジションには実力、実績申し分ない先生が複数、ちゃんと就かれています。ですから、この肩書きは、飾りみたいなものです(笑)。自覚としては診療科の一スタッフでしかありません。

任された外来担当日に患者さんを診察し、研修医と触れあいながら、日々、地域医療のなんたるかを学んでいるところです」
2016年4月に発生した熊本地震に際しては、諏訪中央病院からの医療支援メンバーのひとりとして阿蘇医療センターに駆けつけた。同地での医療活動を通して、多くの感銘と学びを得たという。
また、学ぶ姿勢は言葉だけではない。最近、友人たちと『野獣クラブ』なるFacebook勉強会を開設し、「野獣のごとく、むさぼるように勉強を続けよう」を合い言葉に、全国各地で行われる症例検討会や勉強会の要約を共有している。
「50歳を過ぎてから、医学を学ぶことの楽しさ、知識を得ることの楽しさを改めて知ったような気がします。そんな野獣の本能は、今も日ごとに強くなっています(笑)」
本人の口からは、何度も「引退」という言葉が出る。総合診療医として道を開いてきた時間を、教授職をまっとうするところで一旦区切る意味で使う表現のようだが、目の前では、「野獣のような」現役臨床医が笑っているのである。

庵を結び地域医療を学び、存分にライフワークに傾注する充実の日々

諏訪中央病院勤務となってからは、週に1回の頻度で訪問診療を行っている。
諏訪中央病院勤務となってからは、週に1回の頻度で訪問診療を行っている。

「庵を結ぶ」――『方丈記』では隠遁生活を意味して使われていたようだが、それは、学術や芸術を極めるための生活を指す比喩でもある。教授職を辞し、一見、隠遁生活に入ったように見える山中氏だが、実は「極める」ために諏訪の地に庵を結んだようだ。事実、今、何に興味があるかとの質問には、淀みのない答えが返ってきた。

「現在もっとも興味を持っていているのは、医学を一般市民に向けてもっとわかりやすく情報発信できないかということです。そのために、金、土、日曜日とある週末の休みは、執筆や教育活動に割いています」
日本独特のフリーアクセスのせいで、医療機関には患者が溢れ、勤務医を押しつぶしかねない状況が、いまだにある。

「そんな中には、明らかに受診の必要のない方も混じっています。だからといって、医療機関の門を叩くのに高いハードルを設けるべきだという意見には賛同できません。患者さんは皆、不安だから医師を頼るのですから。決して間違った行動とは思いません。

無闇な不安に陥らないための知識、生まれた不安を取り除く仕組みがあれば不要な受診は減らせるはずです。そんな方向で、なにがしかの貢献ができればいいなと考えているところです」

医学界と一般市民の間に立つ、トランスレーター(翻訳者)、あるいはスポークスマン(広報担当者)といったところだろうか。
「ジャーナリストの池上彰さんが、政治や世界情勢をわかりやすく解説し、とても高い評価を得ていますね。具体的なイメージとしては、ああいった活動が近いように思います」

表向き学府の職は離れ、本人の口からも「引退」の2文字が発せられるが、その実、医学者、医療人としての前進はまったく止まっていない。沈思黙考に割ける時間を多く確保し、ライフワークに力を注いでいるのである。結んだ庵から、今後、様々な成果が発信されるはずだ。

人を信じ、徹底的に学ぶ特質を武器に、総合診療の道を拓き、進んだ

医学部5年生時、軟式庭球部でのスナップ。「あまり真面目な医学生ではなかった」とのこと。
医学部5年生時、軟式庭球部でのスナップ。「あまり真面目な医学生ではなかった」とのこと。

1959年生まれ。医師を目指すきっかけがあったとしたら、母方の祖父が内科開業医だったこと。幼少時代は診療所の診察室が遊び場だった。ただ、少年時代にもっとも憧れた職業はパイロットで、視力が決定的に悪くならなければ、そちらの道に進んだ可能性が高いという。
「医師への憧れは、テレビドラマで白血病に罹ったヒロインがハンサムな医師を頼る様を見て、『あれ、かっこいいな』と思ったレベルです(笑)」

2年の浪人を経て、名古屋大学医学部へ。
「研究成果や意欲的な臨床研修制度で全国的に評価が高い学校だということは、入学後に知りました。入学前の志もその程度で、入学後も決して優秀な医学生ではありませんでした」

成績が思わしくなかったのも事実のようで、自嘲と謙遜の多い自己紹介だが、ひとつだけきっぱりと自負した自己分析があった。
良い意味で人の影響を受けやすい。尊敬できると思う人に出会ったら、徹底的にその人を信じ、その人から学びます。私がその後、医療の世界でそれなりに仕事を成せたのは、この特質を持ち合わせたからだと思います」

PROFILE

諏訪中央病院 総合内科/院長補佐
山中 克郎先生

1985年  名古屋大学医学部卒業
名古屋掖済会病院 研修医
1987-1994年  名古屋大学大学院医学系研究科
1989-1993年  バージニア・メイソン研究所(アメリカ・シアトル) 研究員
1995年  名城病院
1998-2000年  国立名古屋病院 血液内科
1999-2000年  カリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)一般内科
2000年  国立名古屋病院 総合内科
2004年  国立病院機構名古屋医療センター総合診療科(組織変更による)
2006年  藤田保健衛生大学 一般内科/救急総合診療部 准教授
2010年  藤田保健衛生大学 救急総合内科 教授
2014年  諏訪中央病院 総合内科

(2015年12月取材)

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