名古屋大学医学部附属病院 副病院長/医療の質・安全管理部 教授 長尾 能雅先生|DOCTORY(ドクトリー)

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「安全」は、現代医療のさらなる進歩のキーワード。その確信を胸に、道なき道を前進する。

名古屋大学医学部附属病院 副病院長/医療の質・安全管理部 教授
長尾 能雅先生

2015年10月に医療事故調査制度が施行されたこともあり、医療者の間でも、一般社会においても医療における安全のあり方に関して交わされる会話が増えているようだ。ただ、その本質を把握し、誤解なく展開された議論そのものがまだ少ない。
名古屋大学医学部附属病院(以下、名大病院)の医療の質・安全管理部部長である長尾能雅氏は、この分野のオピニオンリーダーのひとり。医療安全のあるべき姿を模索し、実践し、発信することが、日本の医療のさらなる発展に寄与すると信じ、課題への取り組みを継続している。

専従の正規教授ポストを設けての医療安全のための新組織

2011年4月、名大病院は、京都大学医学部附属病院(以下、京大病院)から長尾能雅氏を招き、病院長補佐(2012年12月より副病院長)兼医療の質・安全管理部部長に任命した。同部は、それまでの医療安全部に専従教授と専従医師を配置し、発展的に生まれ変わったもの。長尾氏を教授に指名して姿を現した新組織は、国立大学医学部としては異例の、専従の正規教授ポストを設けた意欲的な取り組みとして耳目を集めた。
長尾氏は京大病院で約6年にわたり医療安全管理室室長を務めた俊英だが、医学部卒業後に入局した名大医局と、その関連病院で長く修練を積んだ身。名大病院への帰還は、既定路線だったのだろうか。

「いえ、そんなことはありません。2011年初頭に名大病院病院長(当時)の松尾清一病院長(現名古屋大学総長)から『医療の質・安全管理部に専従の教授ポストを設けるので、ぜひ前向きに考えてほしい』とのお声がけをいただき、嬉しい驚きを感じてはいましたが、『京大病院に残らねば』という気持ちもかなり強かった。

2004年5月(35歳)、American Thoracis Society International Conference(ATS):オーランドにて。土岐市立総合病院 呼吸器内科 医長時代
2004年5月(35歳)、American Thoracis Society International Conference(ATS):オーランドにて。土岐市立総合病院 呼吸器内科 医長時代

背中を押したのは、京大病院の幹部が『当院で新しいジャンルを切り拓いた君が、名大病院でリーダーとなって力を発揮することは、京大病院の業績であると同時に、日本の医療安全の発展にとって極めて意義のあることだ。迷っている場合ではない』と言ってくれたことでした」

日本で医療安全への取り組みの先頭グループを走る両校のリーダーの間に、日本の将来を見据えた、スケールの大きな人と心の交流があったのだ。
そして2016年現在、長尾氏は専従の医師や弁護士、看護師、薬剤師、事務職員など、あわせて22名から成る医療の質・安全管理部門を先導し、国内最高水準ともいわれる医療安全管理体制を構築している

聞き慣れた言葉が、新しいジャンルになった理由

長尾氏が京大病院を舞台に成し遂げた業績は、要約すれば「医療界全体の医療安全への認識を大きく底上げした」となる。具体的には、それまで医師がほとんど興味を示すことのなかった医療安全における医師の役割の重要性を説き、医師によるインシデント・アクシデントの早期報告を常態化させることに成功。医療事故によって発生した疾患を組織の総力を挙げて治療、被害を最小化する体制を構築するなど、医療安全の向上を生み出す流れを実践してみせたことだ。
特段目新しい用語でもない医療安全が、本質を知る他者をして、前述のように「新しいジャンルを切り拓いた」と言わしめる所以はそこにあるのだ。

医療現場に存在した漠然とした「違和感」

臨床の道を歩み始めた1990年代を振り返り、述懐する。長尾氏は1994年に群馬大学医学部を卒業したのち名大医学部医局に入局し、関連病院で呼吸器内科医としての修練を続けていた。
「あの時代、『真実を伝えれば患者さんが幸せになるというものではない』と考える医療者が多く、インシデントやアクシデントに関する情報がオープンにされることはほとんどなかったように思います。そもそもインシデントレポートシステムも、安全管理マニュアルも存在しなかった。『医療事故は、弁護士や保険会社に任せておけばよい』といった認識があたり前だったのではないでしょうか」

医療ミスが起きても、報告システムがないので、公式に他の科の力を借りることもままならない。事実は患者に伏せられ、一方で当該医療者は立ち直れないほど叱責された。「罪を認めることになるので、患者さんには決して謝罪してはならない」と習った。患者とトラブルを起こさないようにうまく立ち振る舞うことのできる医師が“使える医師”とされた。

長尾氏は、日本の等身大の医療現場に長く存在した“慣習”に“違和感”を抱いた。
「私だけではなく、皆、何かおかしいと感じていたと思います。しかし、誰も行動を起こさない。起こせるような状況ではなかったのです」
漠然とした違和感を抱きながら、長尾氏自身も医療現場の大きな慣習の渦に飲み込まれようとしていた。

予期せぬところから近づいてきた、思わぬ転機

覚醒のきっかけは、名大病院を舞台に起きた2002年の腹腔鏡下手術での死亡事故。医療界への轟々たる批判が渦巻く中、不幸な事故に正面から向き合い、幾多の障壁を乗り越えて外部を主とする事故調査会を立ち上げ、遺族や社会への説明を果たそうとする当時の病院幹部(二村雄次病院長・大島伸一副病院長)らの姿勢に目を見張った――「こうあるべきだ。これなら自分にもできるかもしれない」。そして少しずつ、運命の歯車が動き出す。

「決して声を出して手をあげたわけではないのですが、当時医局の先輩だった長谷川好規講師(現:名大病院呼吸器内科教授)が私の関心を察したのか、上田裕一医療安全担当副病院長(現:奈良県総合医療センター総長)に『面白い若手がいる』と伝えてくれたようです。あるとき上田先生から、『安全管理部の初代の専従医師になってみないか』との打診がありました。私は覚悟を決め、医療安全の独学を始めました。しかし、残念ながら所属する呼吸器内科の事情が許さなかったようです。『医療安全など、医師がやるものではない』とも言われました。診療科として打診に断りを入れ、話は他にまわっていきました」

2007年5月(37歳)、京大病院 医療安全管理室長2年目の写真。京大病院 医療安全管理室にて。
2007年5月(37歳)、京大病院 医療安全管理室長2年目の写真。京大病院 医療安全管理室にて。

それは物語の終わりではなく、始まりだった。ことの顛末を聞き、意欲ある若手医師の存在を認知し、オファーをよこした病院があったのだ。それが、京大病院だった。医療安全管理室室長のポストを提示された。「もちろん、自分史の中で忘れることのない転機となりました。その話を聞いた瞬間に、直感的に『これが自分の生涯の仕事になる』と受け止めたと思います。

オファーをくださった同院副病院長の一山智先生(後に長尾氏の直属の上司となる)が『当院にとって、医療安全の取り組みは最優先事項である。医療安全なくして病院運営は成り立たない』と明言されたのを聞き、自分の考えが初めて肯定されたと感じました」

PROFILE

名古屋大学医学部附属病院 副病院長/医療の質・安全管理部 教授
長尾 能雅先生

1994年3月 群馬大学医学部卒業
1999年4月 公立陶生病院 呼吸器・アレルギー内科 医員
2001年4月 名古屋大学医学部 第二内科学教室 医員
2003年7月 名古屋大学医学部附属病院 呼吸器内科 医員
2004年4月 土岐市立総合病院 呼吸器内科 医長
2005年10月 京都大学医学部附属病院 医療安全管理室 室長・助教
2008年3月    同   ・    講師
2010年4月    同   ・    准教授
2011年4月 名古屋大学大学院医学系研究科 医療の質・患者安全学 教授
       名古屋大学医学部附属病院 医療の質・安全管理部 教授 兼 病院長補佐
2012年11月 名古屋大学医学部附属病院 副病院長

(2016年1月取材)

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