合同会社ゲネプロ代表 齋藤 学先生|DOCTORY(ドクトリー)

へき地医療を学びの場として、総合診療医を育てる
夢を捨てずに進める医師の道を示したい

合同会社ゲネプロ代表 ルーラルゼネラリストプログラムディレクター 救急専門医
齋藤 学先生

総合診療医をめざして、千葉に、沖縄に、鹿児島に

2000年、順天堂大学医学部卒業にあたって、進路を総合診療医に定めた。齋藤氏は独力でスーパーローテーションプログラムのある医療機関を探し、国保旭中央病院に入職した。
「そんな選択が、どれほど真剣なものだったのかと自分ながらに疑うのですが、総合診療医に憧れているくせに沖縄県の初期臨床研修の評判さえ知らなかった(笑)」
しかし、結局は沖縄に行くことになる。
「国保旭中央病院での修業が3年目を迎えるころには興味が麻酔、集中治療、そして救急へと向いていた。4年目からどこで、誰に学ぼうかと思案しているときに、雑誌で井上徹英先生の記事を読み、『これだ』と閃きました。救急医、麻酔医としての手技の凄さに目を奪われました。だめでもともとと雑誌社にファンレターを送ると、なんと先生から返事があり、『よかったら来ないか』とお誘いいただいたのです」
終生の師との出会いだ。

その年井上氏は、病院を移籍することになっていた。それが沖縄県の浦添総合病院。後に、民間病院でありながら日本のドクターヘリ運用の先駆けとなった病院として知られるようになる。
「私は院長である井上先生のもと、1年目は総合内科、消化器内科、脳外科、麻酔科とローテーションし、2年目からはそれまでなかった救急科の立ち上げを任されました」

徳之島徳洲会病院時代の回診風景
徳之島徳洲会病院時代の回診風景

同院でその後5年、救命救急センター長/救急総合診療部長として活躍した後、2009年に総合内科部長として、徳之島徳洲会病院に赴任した。
「井上先生には、『離島こそが最大の総合診療の場だ。蓄えた力を試してこい』と背中を叩かれました。
でも、蓄えた力は通用しなかった(笑)。
高齢者に予防注射が必要な理由ひとつ知らず、在宅医療をしたこともなく、心臓の音さえ聴けない総合内科部長など何の役にも立たない。思い上がっていたことを痛感させられました。かろうじて、井上先生がおっしゃる通り、離島で本当の総合診療が求められていることだけは理解できましたが、それ以外は、私には足りないことばかりで、こてんぱんにやられた感じでした」

半年の契約期間を満了し、済生会八幡総合病院に移っていた井上先生のもとに戻る。救急を一から学び直し、内視鏡を訓練し直し、捲土重来のときを待った。

ドクター・コトーとの交流 島民からもらった忘れ得ぬ言葉

齋藤氏には井上氏の他にもうひとり、畏怖して止まない師がいる。ドクター・コトーとして有名な、瀬戸上健二郎氏だ。同氏が浦添総合病院の教育講演を引き受け、講演のために診療所を空ける際の代診を齋藤氏が引き受けたのが縁。以後、ゆるやかな交流が続き、2012年に瀬戸上氏が怪我を負った際には、代診で診療所を守った。

「あのとき、島の住民のみなさんからいただいた『ありがとう』の一言が、私の人生のターニングポイントだった気がします。
へき地医療、離島医療に本気で取り組む決意が固まったのです」

2013年に福岡県宗像市で在宅医療を展開するコールメディカルクリニック福岡に参加。2年間同地区の医療を支えながら、すべきことはなんなのか、したいことはなんなのか、どんなアプローチがあり得るのかを思索し続ける日々を過ごす。
「離島医療、へき地医療が総合診療医を目指す者に何をもたらしてくれるかは、身をもって知りました。同時に、そういう道筋を望む者が学べる場が少なく、学ぶべきカリキュラムが皆無に近い現実に強い問題意識を持つようになりました」

そして、ゲネプロ設立に至る。会社のミッションとして「1.離島へき地で戦える医師になる」「2.離島へき地で戦える医師を育てる」「3.離島へき地で戦える医師を派遣する」なる明確な旗を立てた。

メジャーリーグ、サンドイッチ、夢を語っていい仕事

クロアチアで出会い、今や師匠と仰ぐオーストラリアのへき地医のEwen McPhee 先生と。先生のクリニックにて
クロアチアで出会い、今や師匠と仰ぐオーストラリアのへき地医のEwen McPhee 先生と。先生のクリニックにて

齋藤氏は、言葉による情報発信を大切にしている。
離島へき地を「総合診療のメジャーリーグ」と称し、目指すことに間違いのない正当なる目標であることを強調する。そして独特の比喩センスを駆使し、正当なる目標への向かい方に間違いがないよう論理を示す。

「欠かせないのは、“サンドイッチ”です。都市で基礎を身につけ、へき地に赴く。赴いた先で足りないものを痛感させられたら、都市に戻り、それを補う。この、都市、へき地、都市のサンドイッチ構造なしでは総合診療医としての力は伸びることも伸ばすこともできない。都市にいるだけではもちろんだめだし、へき地に行ったきりでもいけない。必ずもう一度都市に戻り、補う作業が必須で、必要なだけそれが繰り返すことのできる環境、仕組みがなくてはならない。

最初に赴いたへき地では、必ず『こてんぱん』にされます、私のように(笑)。こてんぱんにされた若者の学びの欲求は偉大ですが、大切なのはトラウマが残らない程度のこてんぱんでなくてはならないことなのです」

ゲネプロの提示する「離島へき地プログラム」では、そのサンドイッチ構造が繰り返されることになっている。離島やへき地に輩出された医師が望めば、いつでも代診医が後を継ぎ、学ぶために都市に戻れるようにするための体制づくりが進んでいる。

「当面は卒後教育に重点を置き、医療の現場に少しずつゲネプロの仲間を増やしていきます。そして、医師供給の仕組みとして軌道に乗ったあとは、いつか卒前教育にまで手を広げたい
そのためには私たちの活動に共感する大学が現れてくれなくてはなりませんが、最初に行政が、次いで大学が評価し、歩み寄って、国全体の仕組みに育てたのがオーストラリアです。
彼らの見せてくれた成功例を、何度も何度も紐解きながら、できるだけたくさんの仲間とできるだけ大きな共感の輪を作っていきたいと考えています」

若手医師たちよ、夢をみよ。齋藤氏は、以下のような言葉でインタビューを締めくくった。
「成人が集まった場で、純粋な夢を語りすぎると『わかったよ』とか『語りすぎだよ』と、たしなめられてしまうのが世の常ですよね。でも、私は、医師の世界だけは、他よりも少し、夢語りを許される世界であってほしいと思います。医師や医師の卵が夢を語らなくなるのは、とてもさみしいと思うのです

PROFILE

合同会社ゲネプロ代表 ルーラルゼネラリストプログラムディレクター 救急専門医
齋藤 学先生

2000年 順天堂大学医学部卒業
     千葉県 国保旭中央病院(初期研修/麻酔科/匝瑳市民病院<3ヵ月出向>)
2003年 沖縄県 浦添総合病院(救命救急センター長/救急総合診療部長)
2009年 鹿児島県 徳之島徳洲会病院(総合内科部長)
2010年 福岡県 済生会八幡総合病院(救急医療センター/総合診療部長)
2011年 鹿児島県 今村病院分院(消化器内科医長)
2013年 福岡県 コールメディカルクリニック福岡
2015年 合同会社ゲネプロ設立(2014年9月設立/代表就任)

(2015年10月取材)

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