東京ベイ・浦安市川医療センター 志賀 隆先生|DOCTORY(ドクトリー)

救急で日本の医療をより良くする。
そのための、「ちょっと背伸び、ちょっと挑戦」。

東京ベイ・浦安市川医療センター 救急科部長
志賀 隆先生

くじで決まる進路に落胆 自分で選ぶ医師人生が始まる

志賀氏は親から「人生は自分で選べ」との薫陶を授かり育ったという。
「漠然と進路を選び、高校では理系クラスに進んでいたのですが、あるとき、教育実習の先生に『君たちは知らないだろうが、世の中は文系が支配しているのだぞ。成績優秀で理系に進んだなんて思い上がっていたら、大人になって惨めな思いをするんだよ』と、衝撃的な事実を知らされ(笑)、真剣に将来を考えるようになりました。
この進路の先に、やりがいのある人生とやりがいのある仕事をとイメージしたとき、答えは医師となりました」

そして、医学部へ入学。このあたりから、「自分で選ぶ人生」が回転を高めていった。医学部在学中に、ふたつの衝撃を得て今の彼がいるという。

ひとつめの衝撃は、赤津晴子先生の書かれた『アメリカの医学教育』。同書でアメリカの事情を知るにつけ、日本では学生本位ではなく教える側の思考だけで医学教育が行われているとわかりました。
もうひとつの衝撃は、アメリカのTVドラマ『ER』。救急の現場でさまざまな患者や症例に立ち向かう医師たちが、つまりは社会の諸問題にも対峙している姿が、あまりに格好良かったんですね。
日本の医学部で教えていることとまったく違う医学教育や医師養成が海の向こうにある。その事実が、私の知的好奇心を激しく揺さぶったのだと思います」

そんな志賀青年は医学部1年生時から、卒業した先輩に「卒後はどうなるのだ」と聞いて回っていたそうだ。リサーチ活動の中で、やはり衝撃の事実を知っていく。

「大学医局に入るとどんな病院で学べるものなのかと質問すると、『派遣先は、くじで決めるんだ』と言う。臨床医にとって大事な卒後の時期の職場が、くじ!
今となっては『そういうのも、ありかな』と思えますが、当時の私にとっては『とんでもない』ことでした。自分で選べない人生なんて、あってはならないと思っていましたから」

このときすでに、志賀医師の医局離脱は決まっていたといえるだろう。6年生時には、医学教育振興財団の短期留学でイギリスのバーミンガムへ行き、ジェネラルプラクティスを見聞。総合診療の幅広さ、臨床医としての魅力に目を奪われ、総合医療を進路と決める。もちろん、研修先はすべて自分で考え、探した。はじき出した答えが、東京医療センターだった。

「救命救急センターがあり総合診療科の実績がある研修病院を候補として絞り込んで行った結果、その答えとなりました。
東京医療センターは公立病院最大で最古の総合診療科があり、しかも救命センターもありました。当時、初期研修もすでに20年以上前から始めていたはずです」

東京医療センターでの2年間の初期研修修了後は、アメリカで救急医学の研修を受ける構想を立て、そのためのルートとして、沖縄の米国海軍病院での研修を選ぶ。同院で1年間学びながらUSMLE(アメリカ医師国家試験)の勉強をし、続いて同じ沖縄の浦添総合病院に2年間勤務しながらアメリカの病院のいくつものマッチングに応募した

「浦添総合病院では、麻酔・救急・集中治療に力を入れて取り組みました。ドクターヘリで離島医療にも従事し、貴重な体験を重ねました」

アメリカの医師にとっても難関 10人にひとりの関門を突破して

渡航先は、最終的にメイヨー・クリニックになった。これはかなりの難関を突破してのことだ。

「救急でのマッチングは、アメリカの医学部でトップ10に入っていないと進めない道なので、外国人の私にはかなりの難関だとのアドバイスを得ていました。だから、死にものぐるいで勉強しました(笑)。推薦状を得るために、情報収集し、かなり精力的に行動もしました」

渡米後の日々は、水を得た魚のようだった。メイヨー・クリニックにはレジデントとして3年間在籍し、次いでハーバード大学マサチューセッツ総合病院でフェローシップとなる。アメリカの救急専門医資格を取得する過程で、教育、特にシミュレーション教育にも関心が向いていった

「メイヨー・クリニックでは月に1回、必ずシミュレーション教育が行われていて、とても質が高く、感銘を受けました」

シミュレーション教育を学びながらマネージメントとリーダーシップなどの基礎力をつけることもできる場として、同院での2年間のフェローシップを選んだ。そこでは救急部のスタッフとして臨床に従事するかたわら、ハーバード大学の医学部で学生を教え、病院で学生やレジデント、ナース・プラクティショナーを教えた。公衆衛生修士(Master of Public Health)を取得する課程では、シミュレーションを使った臨床研究にも取り組み、医療安全、コミュニケーション、マネージメント、医療経済、医療政策などをハーバード大学公衆衛生大学院で精力的に学んでいった

医師という夢追い人 ちょっと背伸びしてがんばる

2011年、Best Medical Education Research Awardを授賞した記念に。ハーバード時代の恩師のDr.GordonとDr.Krupatとともに。
2011年、Best Medical Education Research Awardを授賞した記念に。ハーバード時代の恩師のDr.GordonとDr.Krupatとともに。

そして、2009年、東京ベイ・浦安市川医療センターとの運命の出会いに従って帰国した。

「自分で選ぶ医師人生」の道を邁進した結果、志賀氏の中には現在、「日本の救急をより良くしたい」という人生のテーマが生まれている。

「個人的なイメージとして、親子げんかの仲裁をするシーンが思い浮かぶのですが(笑)、いつの時代にも社会のニーズと医療の間にはそれをうまくマッチングさせることが求められます。

マッチングの大任を果たせる仕事のひとつが、救急だと思います。ですから、救急をより良くすることは日本の医療全体をよりよくすることになると信じて日々がんばっています

しかし、なんとも類例のない歩みである。卒後すぐに医局を離れ、渡米を決める勇気の源泉はどんなところにあったのだろう。

「両親から『人生は自分で選べ』と教育されたお話はすでにしましたが、先祖を辿ると戦国時代の武将にまでさかのぼる家系で、時代の局面局面で反骨の人を何人も輩出していたようです。血のなせる技なのでしょうか(笑)、医局のヒエラルキーを登る考えは一度も持ったことがありません。

驚きの声を聞かされたことは何度もありますが、正直、なぜ驚かれるのかが理解できません。私にとっては当然の選択をしただけのことです」

大事にしている言葉を訊いた。

『ちょっと背伸び、ちょっと挑戦!』でしょうか。それは、夢を実現させる秘訣にもなると思います。

大人になってからの夢は、子供のころの夢とは違います。3年後、5年後の自分はどこにいるのかと、最終形を常に考えながら次に向かって準備をする。現実的な目標を策定し、やりとげる繰り返しを続けるうちに、より大きな成果が得られる。そんな繰り返しの中に身を置くことができる職業のうちのひとつ、それが医師なのだと思います」

PROFILE

東京ベイ・浦安市川医療センター 救急科部長
志賀 隆先生

2001年 千葉大学卒業。東京医療センターで初期研修修了。
2003年 沖縄の米国海軍病院にて研修を受けつつ、USMLE(アメリカ医師国家試験)の勉強。
2004年 浦添総合病院に勤務。
2006年 米国ミネソタ州メイヨー・クリニックにて研修。
2009年 ハーバード大学マサチューセッツ総合病院で指導医として勤務。
2011年 東京ベイ・浦安市川医療センターの救急科部長となり、現在に至る。

(2015年10月取材)

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