静岡県の中東遠地域の3市1町(磐田市、菊川市、森町、御前崎市)からなる静岡家庭医養成協議会は、2010年静岡家庭医養成プログラム(以下、SFM)を立ち上げ、ここまで、浜松医科大学との連携のもとに多くの後期研修医、フェローを育成してきた。長く医療過疎に悩んできた静岡県では多くの関係者が様々な創意工夫を発し、地域医療の立て直しに汗を流している。SFMもそんな成果のひとつといえるだろう。井上真智子氏は、同プログラムに責任者・指導医として参加する浜松医科大学地域家庭医療学講座特任教授だ。大学講座が地域医療に対して果たすべき役割について考え、実践するその姿からは、新しい時代の息吹きが感じられる。
これからの地域医療は、「地域に出たら、それっきり」ではいけない
地域医療に取り組む家庭医が、来る日も来る日も臨床に没頭する姿――医療に知見ある者にとって、至極見慣れた風景だった。これまでは。
井上氏は、SFM指導医として以下のように指摘する。
「当プログラムは家庭医、(新制度での総合診療医)を養成していますが、後期研修の専攻医には『プライマリ・ケアには未知の研究テーマがたくさんある。研究にも取り組みましょう』と言っています。これからの地域医療は、『地域に出たら、それっきり』であってはならないと考えています」
着任地でどっぷりと、日々診療に専心するのが地域医療の担い手の使命。そう信じて疑わない者は、いまだ多いのではないだろうか。
「もちろん、臨床医として集中的に診療スキルを磨く時期は必要ですが、医師というものはアカデミズムから完全に隔絶されてモチベーションを長続きさせるのは難しいと思います。得られた学びや成果を他者と共有せず、診療に追われるだけの毎日では、待っているのは疲弊でしかありません。
研究に取り組む機会を得て、目先が変わり気分転換になるだけでも効果は大いにありますが、それ以上に、若い医師は、研究のスキルを身につけることで、少し距離を置いて目の前にある事象を総合的にとらえ、分析する能力を伸ばすことができるのです。それは、医師人生を長く助けてくれる宝物と言っていいでしょう」
古い世代の医療人は、隔世の感をいだくのではないだろうか。地域医療の担い手に向けて研究の大切さを説く指導医など、日本中を見渡しても皆無。そんな時代が、つい先日までだったと思う。極論すれば、地域医療と大学講座は水と油の関係だったのだから。
地域医療にパブリックの視点は足りているのか。パブリックが果たすべき役割とは
そんな井上氏の論理で印象的なのは、「パブリック」(公共性・公益性)という視点だ。大学院でパブリック・ヘルスを学んだことも影響している。
「SFMはパブリックな機関ですから、専攻医に、診療だけに追われることなく学びや研究、地域での活動に目を向ける有余を与えることができます。そういった長所を最大限に生かしていきたいと思います」
さらには、
「地域を支えてきた開業医の先生方が高齢化し、後継者のあてもない。さらには、過疎化が進み、開業医がペイしなくなる事態も発生している。そういった状況を、パブリックが支えるのは時代の必然ではないでしょうか。そして、患者の生活の場である地域は医師教育の場として最適なのです」
時事として地域医療が語られる時、必ず登場するのが自治体病院の問題であったりするせいか、地域医療にはパブリックが満ちていると短絡しがちだが、実は、プライマリ・ケアは開業医個人のがんばりで支えられていた側面もある。パブリックの力は、足りていなかったのだ。
また、開業医への負荷は、何も自治体だけの責任ではない。大学なるパブリックが、医師派遣というアプローチ一辺倒で硬直化していたことを認め、改める時期ではないのか。教育の場として地域を稼働させ、研究の存在意義を発動し、地域医療に資するパブリックになるべきだ。
井上氏の発する「パブリック」には、そんなテーゼが静かに埋め込まれているように思える。
医学部在学中に母を乳がんで失う。そこで気づかされたことが、井上氏の医療観に大きな影響を与えた
兵庫県尼崎市出身。両親は医療に関係していなかったが、祖父も叔父も開業医だったせいで医療はとても身近な存在だったという。ただ、具体的な医療への興味が顕在化したのは、小学校高学年時だったかもしれないと振り返る。
「『ネパールの赤ひげ』と呼ばれた岩村昇先生の活動について聞く機会があり、医療と国際貢献にとても興味を持つようになりました」
国際貢献への共感と傾倒は一過性ではなく、後にはネパールに渡った日本の家庭医、楢戸健次郎先生を訪れ、直接薫陶も得たという。そして京都大学医学部へ進学。同大学在学中に、井上氏の医師人生の方向性に大きな影響を与える出来事があった。
「母が乳がんを発症し、48歳の若さで他界しました」
医学部で医学を学んでいる時間に、肉親の病死が絡んでくるとはなんとも過酷だ。
「祖父や叔父を通して医療を見てきたつもりでしたが、母の発症で患者家族となってみて気づかされることの多さに驚きました。
特に強く感じたのは、医療は『治す』ことがすべてではないということ。当たり前なのですが、治らないケースもあるのだとつくづく思い知らされたわけです。キュアできない患者さんに、ケアが必要であることを身をもって学びました」
在学時の2度の渡航を通して、進むべき道、目指すべき医師像を固めていった
誤解を恐れずに表現すれば、井上氏はその悲劇からただでは起きなかった。
「1990年代当時、日本にはまだ緩和ケアが根づいていたとはいえませんが、母は幸いにして、日本のホスピスの草分け的な施設で終末期を過ごすことができました。母を見送った翌年、イギリスに留学したのはその経験が発端です。母の病気で強く興味を持った緩和ケアについて、ホスピス発症の地で学びたいと思い、3カ月間、様々な施設を見学し、研修を受けました」
在学時代の学びの意欲は、さらに井上氏の背中を押した。
「渡英の翌年には、ケニアに渡り、難民キャンプを見学しました。その経験を通して、医師がグローバルな貢献を果たすには、ジェネラルに診られる能力が必要だと痛感しました。私の中ではそれは、緩和ケアも看取りも含まれるジェネラルでした。
『なんでも診られる医師になろう』との意思が、その辺で固まっていったように思います」
卒業を控えた頃には、理想の医師像へのアプローチのプロセスも具体的になっていく。
「人が生まれるところから最期を迎えるところまで診られるようになることを目標に置こう。そして、手始めは女性をケアしよう。そう考えました」
総合診療の手始めに女性をとは、あまり普遍的な思考ではないように思われる。ただ、そこに井上氏の個性が発現していると受け止めればいいだろう。もし、母親を看取った経験が影響を与えていたとしても、非難の声など上がろうはずもない。