「へき地医療」、「離島医療」という言葉には、いまだ「たったひとりの善意の医師のがんばりによって支えられる医療」というイメージがついて回る。しかし、隠岐広域連合立隠岐島前病院(以下、隠岐島前病院)は違う。院長の白石吉彦氏は言う。「たったひとりのがんばりには、限界があります。『施しの医療』ですか? 心根の美しさは認めますが、賢明な動機には思えません。私は、離島医療は、継続できることが第一義だと考えています。瞬間最大風速で120点の治療をしても、続かなければ意味はない。100点は取れずに60点でもいいから、しっかりと継続できる医療を確立すべきだと思っています」
旅人に憧れる少年は、旅は消費だと見抜いた。だから、手に職をつける。医師になると決めた。
1980年代、徳島県。その高校生は、若者らしい溌溂とした笑顔で将来の夢を語る。
「旅人(たびびと)になりたいです」
ティーンエイジャーならではのロマンチシズムは、荒唐無稽であっても許される。もちろん聞かされた者の「いいね」も、「はい。聞きましたよ」程度のニュアンスでかまわない。ところが、その若者が――
「旅とはつまり消費です。なので、貯えがなければ出発できませんし、旅先で収入の得られる職がないと維持できません。たとえば、医師などはちょうど良い職業ではないかと思うのです」
――と話を継いできたら。若者の顔を二度見する者を含め、多くの大人は、少なくとも「聞き流し」は止めるだろう。聡明さに、ハッとさせられる。ベンチャー企業の経営者であれば、その場で「当社で働いてみないか」と勧誘するかもしれない。
実際にそんな場面があったのか定かではないが、進学を控えた白石少年がそういう考えの持ち主であったことは事実だ。
「調べると、エリートドクターを育てるのではなく、即働ける臨床医を育てる医科大学がありました。『こりゃ、俺のためにつくってくれた大学じゃないのか!』と思いました。すぐに、自治医科大学への進学を決めました」
聡明な若者がひとり、医の道に足を踏み入れた瞬間だ。その年齢にしてすでに、生き様に豪胆さが垣間見られ、痛快でさえある。
徳島県の勤務医時代に特定非営利活動法人TICOを設立し、会長を務める。
自治医科大学を卒業すると徳島県へ帰り、初期研修を経て、様々な医療機関でへき地医療に従事する生活が始まった。過疎地が多いうえに医師不足な徳島県では、自治医科大学出身の総合診療医は文字どおり八面六臂の活躍を求められる。白石氏も多忙で、しかし充実した日々の中で研鑽に務めた。
この時期にひとつ、大きな出会いがあった。当時勤務していた徳島県立中央病院に10歳年上の吉田修氏が着任したのだ。吉田氏は青年海外協力隊での海外生活を終えての、帰国。いつか医師として海外に出かけるイメージを持つ白石氏にとってはまさに憧れの先輩で、当然、意気投合する間柄となった。
「いろんな話で盛り上がる中、この徳島でできることはないか、何かあるだろうということになりました」
そして、1994年、アフリカのザンビアを中心に医療・農村開発などの国際協力活動をおこなう特定非営利活動法人TICOの設立に至った。TICOは、戦争や貧困に苦しむザンビアの人々への自立支援を共同作業により実践する。そこで学んだ経験を地域の人々と分かち合い、支援する側の私たちの生活ももう一度振り返り、地域の精神文化の高揚に寄与しようと考える団体だ。白石氏が初代会長に就いた。
「そのいきさつには、ひとくさりあります(笑)。“おっさん”(吉田修氏)と意見が一致し、互いにすべきことをしながら組織の立ち上げに邁進するわけですが、リーダーは年長者が務めると考えるのは普通のことじゃないですか。少なくとも私は、すべてその前提で考え動いていました。ところが、“おっさん”ときたら、よりにもよって、立ち上げの総会の場で、『私は来年からまた海外に行くつもりなので、会長は――白石君、よろしく』と!
何百人もの出席者が集まり盛り上がっている中でそんな話の流れを作られたら、断れる人なんていませんよね。やられた、という感じです。言葉どおり、“おっさん”はほんまにおらんようになるし、充実していましたが、組織運営にかなり骨の折れる4年間を過ごしました」
白石氏は1994年から、隠岐に居を移す98年までの4年間会長を担い、後に、帰国した吉田氏にバトンを渡した。TICOは現在も吉田会長のもとで活動を継続しており、意義ある業績をさらに重ねている。もちろん、白石氏と“おっさん”の友情は、今も変わらず続いているようだ。
隠岐の地に立つ。「自分は、ここにくるために総合診療医になったんだ」と強く思った。
そして、いよいよ隠岐島前病院(当時は、前身の島前診療所)に赴任する。医療のために徳島県の山間部のあちこちに出向く姿はちょっとした旅人に見えるが、瀬戸内海を越えて日本海の離島に飛んで行ってしまう風情もなかなかの旅人だ。
「この島と島の医療環境を見て、こう思いました。『自分は、ここにくるために総合診療医になったんだ』と。
徳島県では山間部のへき地で医療を行いましたが、山間部というのは良い道路が通れば環境は一変し、極論すればへき地ではなくなります。しかし、離島は違う。本土から道が来ることはありませんから、これまでも、これからも変わらずにへき地であり続けるのです。そういう意味での過酷さが、私のやる気の琴線に触れたようです」
病院には外科医や小児科医はいましたが、総合診療医は白石氏ただひとり。赴任から3年間は押し寄せる外来をこなしながら往診にも積極的に応え、目の回るような忙しさに身を沈めた。夏休みも取らずに、嬉々として医療に取り組んだそうだ。そして、気づくと4年目には、『君が院長だ』ということになっていた。
院長就任に際して白石氏は、考えた。
「院長(診療所長)が定年なので、次は君ね、ということで、乱暴な話だなあとも思いました。病院経営の勉強なんてしたことはないし、もちろん経験もないのですからね。
でもやるからにはしっかりやろう、できることをやろうと立ち止まり、考えてみました。そして、思い至ったのが、離島の医療の最大の問題は、『医師が長居したがらない、実際に長居しないこと』だという点でした。逆に言えば、そこさえ改善すれば離島医療がかかえる問題や悩みの、かなりの部分が解消するはずだとも思いました」
3年間休みもなく患者に寄り添い評価を得た医師が突然、病院経営を任された。個人の成功体験に基づいてもっと休みなく、もっと猛烈に働く病院を目指しても不思議はないが――運営を任された途端、視点を変えて、将来を見据えた問題解決の端緒を的確にとらえるそのセンスは、うなるばかりだ。