インパクトのあった耳鼻咽喉科の講義。この分野で外科医になろうと決意

朝蔭氏の理念と価値観を理解するため、ここまでの歩みを振り返ってもらう。
「医学部入学に関しては、理科系が得意で、偏差値が届いていたので、1年浪人して山形大学医学部の試験をクリアした。正直、それ以上の夢や動機を持ってこの世界に入ったわけではありません。ただ、この世代の常として『ブラック・ジャック』からヒーローとしての医師像をぼんやりとイメージしていた少年ではあります(笑)。
そのため、医学部入学時点から、外科に進みたいという希望を持っていました」
大きな出会いとして記憶しているのは、医学部4年時の耳鼻咽喉科の講義。
「耳鼻咽喉科講座の准教授が、手術着の上に白衣をまとって講義をしてくれました。とても、かっこよかった。『今、10時間を超える大手術の真っ最中。そこを抜け出して、ここにいる』とのこと。
それは、現在の私が日常としている、形成外科も参加した合同手術でした。いずれにしろ、『耳鼻咽喉科というのは、こんなダイナミックな治療もある世界なのか』と強いインパクトを受けました。その後、出入りするようになった耳鼻咽喉科医局の雰囲気が気に入ったことも大きく、耳鼻咽喉科で外科医になろうと決心するに至りました」
ただ、卒業後に、山形大学の耳鼻咽喉科医局には入局しなかった。
「大学に残る選択もありましたが、私は東京出身であったため、ぼんやりと『東京で、この分野で修練を積む場は見つからないだろうか』と考えてみた。すると、大学の先輩、前述の准教授の先生が、『東京で学びたいなら、東京大学医学部の耳鼻咽喉科医局を紹介するよ』と言ってくださった。
かなり悩みましたが、最終的に東京で学ぶ道を選びました」
希望の進路の前に立ちはだかった、意外な要請と意外な事実
同医局に入局し、広く耳鼻咽喉科医療を学んだ。そして、入局2年目に勤務した、都立府中病院(現:都立多摩総合医療センター)耳鼻咽喉科で運命の出会いがあった。
「部長の船井洋光先生のご指導で、がん医療への興味が大きく育ちました。耳鼻咽喉科には耳、鼻、喉、がんの4つの主要領域がありますが、私にはがんがもっとも興味深かった。
それは、『医師になった以上、人の命に関わりたい』という気持ちが自分の中にあることを、あらためて確認した気づきでもありました」
医局に「がんを学びたい」と申し出ると、ほどなく東病院でのレジデントとしての勤務が決まった。そしてそこには、海老原敏氏との出会いが待っていた。
東病院で、海老原氏のもとで、9年にわたり腕を磨いた後、朝蔭氏には次の目標がみえていたという。
「当時、東京医科歯科大学にできたばかりの頭頸部外科で、教授の岸本誠司先生が確立していた新しい技術に強い興味がありました。次は、あそこで学びたいと心が固まっていきました」


ところが、想像していなかった事態となる。所属医局である東京大学医学部耳鼻咽喉科医局から、大学に戻るよう要請があったのだ。
「耳鼻咽喉科頭頸部外科チームをこれまで以上に発展させるためにチームリーダとなってくれないかとのお話でした。耳鼻咽喉科教授の加我君孝先生が直々に面談してくださったこともあり、とても光栄なお誘いだったのですが、私の希望は違うところにあるのでと、2度お断りを入れました」
ところが、加我先生からの3度目の呼び出しの前夜、海老原先生に事情をお話ししたところ、
「『恩のある医局からのお願いを無下に断るのは、感心しない』と諭され、得心せざるを得ませんでした。」
そんなできごとがあったせいで、もうひとつ意外な事実を知ったとのこと。
「両先生は、必要に応じてていねいな文面の手紙をやりとりしていたらしいです。そして、私が東病院に着任して1年が過ぎた頃に、海老原先生は加我先生に手紙を書いていたのです。『朝蔭君は見込みがあるので、少し長くこちらで預かりたい』と。
私が9年もの長きにわたってあそこに在籍できた陰には、両先生のそんなやりとりがあったのです。無自覚に突っ走っていただけの自分を少々恥じ、海老原先生、加我先生が後進に向けて注いでくださっていた愛の深さに頭(こうべ)を垂れる思いでした」
知らぬは当人ばかりなり――朝蔭孝宏氏は『東京大学にとっても東病院にとっても、数年にひとりの期待の星』だったということなのだろう。
12年にわたり頭頸部外科チームの発展に傾注した後、新たな冒険の旅に出る

巨頭からの愛を受けた希望の星は、すくすくと育ち、先達からの願いも叶えながら前に進んだ。東病院から出身医局に戻り12年間、要請された頭頸部外科チームの立て直しに精力を傾けた。
「東病院で学んだ最新技術の移植もできましたし、乏しかった研究風土も開拓できました」
「区切りがついたかな」と思えるようになった時期に、東京医科歯科大学医学部頭頸部外科の教授選があることを知った。12年前に憧れ、側で学ぼうと欲した岸本教授の後任を選ぶ選挙だ。迷わず、手をあげた。
「ライバル関係にある医局間での移籍となりますから、軋轢や好奇の目があることは覚悟の上です。実は、私自身は、そういったことはあまり気になりません。
そんなことより、国立大学で唯一の頭頸部外科講座で腕を振るうポジションを得られる数少ないチャンスを逃したくはありませんでした」
教授就任2年目、頭頸部・頭蓋底腫瘍先端治療センターセンター長就任初年度というタイミングで実施されたインタビュー。有り余るような気負いこそ発していないが、興味に従って邁進してきた専門領域で培った技術と知見を花開かせようとの意気込み、覇気は部屋中に満ちていたように思う。

今後の展望について質問すると、臨床、研究、教育について直近の課題、現状などについて解説してくれたのに加え、もっとも新しい個人的興味についても触れてくれた。
「今、とても興味があり、知見を得たいと感じているのは医療経済です。この医療、この治療にはどれくらいの費用対効果があるのかということをよく考えるようになりました。
“先進医療であればコストなど関係ない”――そんな価値観だけを振り回していては、医療が地に足のつかないものになり、本当の意味で国民の幸福に貢献できないのではないかと思うようになったのです」
新しくできあがったばかりの管理棟の一室は、まだ新しいはずだが、すでに十分に雑然として朝蔭氏のキャラクターが息づいていた。まだ始まったばかり。複数の先達が希望を託した俊英の冒険の旅は、ここからどこに続いていくのだろう。