自ら操舵する船で、離島での巡回診療に赴く

取材当日は、月に2回の離島への巡回診療の日だった。女川港から船で20分ほどの出島(いずしま)は、震災後に島の診療所が廃止されてしまった。齋藤氏は、研修医2名、看護師2名、事務スタッフ1名のチームを引き連れ、自らクルーザータイプの小型船を操って島に渡る。
「町所有の船です。船舶免許は、町長に勧められて取得しました。仕事に必要で始めた船の操縦ですが、海上を走るのはとてもいい気分転換になります」
出島も、被災地だ。港から島の中央部に続く上り坂の両側には更地になったままの宅地がいくつも放置されている。津波にさらわれた後に、再度家を建てる判断はしかねるのだろう。
一本道を登りきった丘の上の広い平地に、出島集会所の建物があり、この中に出張診療所のスペースが設けられている。集会所の対面には、災害公営住宅が建売住宅の住宅地のようにして佇んでいる。齋藤チームの到来を知った住民たちが、おしゃべりをしながら三々五々に集まってくる。
「巡回診療の前日までにはスタッフミーティングを行い、前回の診療実績から予想される医薬品の準備なども行いますが、当日の診察の結果、持ってきていない薬の処方をする必要も出てきます。そんな場合、薬の払い出しは次の診察日にとはいかないので、島への定期便の船員に託したり、宅配便を使ったり、臨機応変な段取りを組むことが大切です。離島への巡回診療には、そんな難しさもあるのです」
出張診療所の待合室には穏やかな空気が流れ、10数人の島民が思い思いに過ごしながら順番を待っている。皆、慢性疾患を抱えているからここにいるのだろうが、なぜか楽しそうだ。齋藤氏の言う、「そこにいてくれるだけで、安心だ」とはこういうことなのだろうと思った。


震災後半年、町立病院の再構築プランを実行に移す

2011年10月、女川町立病院は女川町地域医療センターに生まれ変わり、齋藤氏も院長からセンター長に肩書きを変えた。計画通り、病院は19床の有床診療所となり、併設する介護老人福祉施設(老健)は100床に増床。建物が被災した町保健センターも隣の建物に越してきたため、期せずして保健、医療、福祉がコンパクトに機能を集約し、連携を密に取る体制ができあがった。
「女川町立病院はミニ大学病院を目指していたため、1階の外来は診療科ごとに診察室が区分けされていました。無駄な仕切りをなくし、現在の、総合診療科の1診~5診というシンプルな構造への変更は、実は津波が後押ししてくれたと言っていいでしょう。あの被災で1階がすべて流されたため、躊躇があったかも知れない大改修に踏み切れたのです」
今後の運営方針は。
「予防と健診に力を入れる方針です。在宅診療も充実させたい。また、町の復興プランのひとつとして『子育てしやすい町に』との方針も策定されていますので、そのバックアップもします。本年度から、院内に病児病後児保育の施設を設けたのもそのためです。小児科医が赴任してくれたことは我々にとってとても大きな事でした」
齋藤氏は医療機関の長として町に安心をもたらし、復興の活力を陰で支える役割をまっとうしようとしている。ただ、本人の自覚を反映した言葉以上に、人望が患者以外の町民の期待も引き寄せているように思えた。サポート役ではなく、牽引者のひとりに数えられているのではないだろうか。事実、町づくりに参加している自覚を問うと、決して否定はしない。
「私は、赴任した地域にどっぷりとつかるタイプの医師です。診察以外の時間に町の人と話したり、飲み食いしたりするのは大好き。集落の行事にも参加するし、患者さんに野菜や海産物を手渡されれば喜んでいただきます(笑) そんな風にして愛着を育てた土地が、地震と津波で破壊され再出発しなければならないとなれば、できることはなんでもする心づもりです」
ひとりの患者と長く付き合うことができる。
そこに医師冥利を感じる

総合診療医と地域医療、その双方の未来について聞いた。
「私が地域医療の現場に出た当時、へき地に赴任するには正直、勇気がいりました。なんといっても情報から隔絶される側面が否めませんでしたから。事実私は、医学書は大学に戻ったときに買いだめしていました。
しかし現代は、ネット環境の整備によってそういった足かせはありません。地域医療への参画を望む若者たちにとっての障壁は、かなり取り払われていると感じます。明るい未来を描けそうです」
自らの総合診療医人生には、充実感を持っているのだろうか。
「いわゆる、『はまっている』状態ではないでしょうか。田舎で総合診療医をやっていると、必ず、『齋藤先生に診てもらいたい』、『齋藤先生に最期を看取ってもらいたい』という患者さんが現れます。私は、それが嬉しい。たまらなくやり甲斐のある仕事に就いたと感じています」
現代医療の大勢を占めたかに思える臓器別専門医志向の対極とも言える、価値観。言うは易しと思うのだが・・・。
「前任地の磐梯町で、『最後まで診てくれ』、『わかった』と交わした患者さんとの約束を守るため、今も月に1度、磐梯町保健医療福祉センターで外来を受け持っています」
やってのけている事実に、頭を垂れるしかない。
前述した町からの交付金は、大胆な体制変更によって現在、3分の1程度まで圧縮できているとのこと。マネジメントの手腕もなかなかのものだ。
人情に篤い医師であり、大胆な改革者であり、町の復興に労を惜しまない一市民でもある。そんな魅力の多面体に触れて、触発されたせいなのだろう。「この人物は、どこから来て、どこへ行こうとしているのだろう」という視点を持ったのは。
とても楽しみだ。しかし、常時観察し、行き先を確かめるわけにはいかない。何年かに一度、「今、こんなところに来ている」と旅先から便りをもらえればいいのにと思った。
