その人は、振り返る作業を好まない。「振り返っていたら、躓きます。集中して前を向いていなければだめになるという緊張感は、開院当初から今も、まったく変わっていません」。佐藤元美氏は、一関市国民健康保険藤沢病院(以下、藤沢病院)を舞台に、医療と介護や福祉をミックスした総合的サービスの提供を展開し、目覚ましい成果を示した。地域医療の再生が叫ばれる今日に、時代の寵児となる資格を得たといえるだろう。寵児はしかし、寸分も浮かれてなどいない。「このような構想が実現したのはある意味で奇跡ですが、決して永続を約束された成功などではありませんし、一過性の奇跡として消え去る危険に、常に晒されているのです」。 自らに言い聞かせるかのようなその一言は、全国の全関係者に向けたアラートの旋律のようでもあった。
己を忘れて他を利するは、慈悲のきわみなり
藤沢方式という言葉をご存じだろうか。地域包括ケアに関する大成果のひとつである、岩手県岩井郡藤沢町(2011年9月、一関市と合併)で実践された医療、保健、福祉の垂直統合方式を指す。藤沢町民病院(現:藤沢病院)と併設の老健を統括運営し福祉医療センターとして地域コミュニティになくてはならない存在となり、2006年度には自治体立優良病院総務大臣表彰を受けた。以後、全国の地方自治体がその手法をとり入れるようになった。
佐藤氏は、その実践者であり、今も刻一刻と藤沢方式のアップデートに取り組む日々を送っている。「そろそろ、次世代への継承を頭の隅において考えを進め始めています。藤沢方式という呼称まで生んだ運営事例ですが、だからといって金科玉条になってはいけない。この施設は時代の要請に従って生まれたものですから、常に時代の要請に則して変容すべきです。これまでの20年と今後の20年はまったく違う歩みになるはずです」
佐藤氏は自治医科大学2期生。「医療の谷間に灯をともす」の理念のもとに地域医療の担い手を輩出すべく建学された同大学の、精神のエッセンスを全身にたずさえた医師といっていいだろう。「私たちの世代には、自治医科大学初代学長/中尾喜久先生から直接薫陶を得た自負があります。医師国家試験受験時には、『中尾先生を泣かせるな』(笑)を合い言葉に皆で心を引き締めたものです」
「藤沢病院のエントランス前には、同院開院時に中尾氏に揮毫を依頼した「忘己利他(もうこりた)」の碑が設けられている。 「『忘己利他』は、天台宗の開祖である最澄が時の朝廷に学生養成制度の勅許を仰ぐ際に呈した『山家学生式』の中の一節『悪事向己 好事与他 忘己利他 慈悲之極――悪事を己に向かえ、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲のきわみなり』に由来します。ビジネスを優先させず、常に奉仕する精神と思いやりの心を持った病院であれとの中尾先生の思いが込められています」
医学からはみ出し、病院からははみ出ない綱渡り
佐藤氏は卒後からここまで、一貫して故郷/岩手県で医療を展開してきた。文字通り、自治医科大学の精神を貫いた医師人生といえるだろう。その医師人生に一大転機が訪れたのは、1993年のことだった。佐藤氏のもとには1990年代初頭から当時の藤沢町町長・佐藤守氏からの相談が舞い込んでいた。25年近くも病院のなかった同町は、病床数54と小規模ながらも悲願の町民病院の設立を間近に控え、新病院の院長に迎えたいというオファーだった。
「町長はこの分野についてかなり勉強なさっているご様子で、医療、保健、福祉を統合した独自の政策についても丁寧な説明を受けました。町長がもっとも心を痛めていたのは、無医地区となっていた藤沢町の町民の多くが、町の外で亡くなっていた点でした。町民からも『生まれ育った土地で死んでいける町になってほしい』との強い要望が寄せられていたそうで、医療、保健、福祉の基本サービスを公共の組織が担い、それを住民がサポートする仕組みを構想するにいたったようです。新病院は、その屋台骨になることが期待されていました」後にこの分野で「藤沢方式」とともに、カリスマ性を帯びて語られることになった「W佐藤」の結成の瞬間か。
「実は、少なくとも3回は、お断りしています(笑)。何より当時、久慈病院における内科長の仕事にやりがいを感じていましたし、構想は財政的にも、医師確保の実現性からも、とても難しいと感じましたので。勉強してみると、やはり全国の国保病院はどこも赤字だとわかりました。とにかく多くの試練が待ち受けていることだけは、よくわかる案件でした」
水面下で、産みの苦しみは、あったのだ。「ただ、断りながらも、構想にはやはり冒険心をくすぐるものがありました。次第に、その魅力の輝きが、私の中で輝度を増したのでしょうね。当時、37歳。医師になって13年目でした。医師養成には、あまねく国の補助金が投じられています。国民の税金でサポートされて医師になった以上、社会の役に立つことが私の人生の第一義であると信じていました。また医療の前後、つまり予防や持病のある方の生活のサポートまでを含めた、広い視野が必要だと感じ始めていたころでもありました。久慈病院で医師としての一定の評価をいただき、やりがいも感じていたのですが、同時に県立病院という枠組みの限界も見え始めていました。私の求めるものを枠組みに当てはめると、『はみ出す』との確信に似た予感もあり、最終的には医療過疎地での完結型医療の運営に挑戦してみようと、心に決めることができました」
三顧の礼に応じた選択は、医師人生を豊かにしたのだろうか。 「何の後悔もありません。充実した日々だったと感じています」
「はみ出してしまう」予感に従った歩みは、奏功したようだ。
「私は、ここまでの歩みを『医学からはみ出しながら、病院からははみ出さない綱渡り』と表現しています(笑)。その言葉に尽きるでしょう」1993年に院長に就任し、2005年には地方公営企業法全部適用を機に事業管理者となり、現在にいたっている。
あのナイトスクールにも 大きな産みの苦しみが
佐藤氏の運営手腕と着想の輝きを象徴するもののひとつが、これもまたこの分野で有名なナイトスクールだ。ナイトスクールとは夜間、地域に出向いて、地域住民と医療者が医療について忌憚のない意見をやりとりする場だ。現在まで、20年以上にわたり連綿と続いている。「産業のある自治体は、法人税収を主な原資にして地域医療を支えますが、当時の藤沢町でそれが叶わないのは自明でした。ナイトスクールは、真面目な町民と我慢強い患者が地域医療の資源になることを教えてくれた事例といえるでしょう」佐藤氏が示したこの価値観に、快哉の声が響いた。以降、地域医療の活性化の手法として多くの医療機関がこれを手本にしている。とはいえ、ナイトスクールにも産みの苦しみがあった。「地域住民と医療者との対話」という語感から、手に手を取り合って始まった前向きなイベント企画かに思われがちだが、さにあらずなのである。
開設1年目、病院は異常な熱気を帯びていたそうだ。診療すれば疾患が次々と見つかり、医療者も住民も病院創設の効力のあまりの大きさに喜びを爆発させた。しかし、2年目を迎えると、病院のありがたみは急激に薄れていく。住民は待ち時間の長さを理由に「診察なしで薬だけほしい」などと要求し、それを認めない同院の対応がクレームとなり、町議会の議題までにもなったのだ。
「診察室や町長室で説明を繰り返しても住民の皆さんからの納得は得られませんでした。病院設立からわずか1年で、こんなかたちの軋轢が生まれるとは――。予想だにしない危機に直面した私が意を決し、住民を集めた話し合いの場を設けたのが最初のナイトスクールなのです」できるだけ多くの人が参加しやすいよう夜7時から9時の開催とし、無診察投薬が法に反する危険な行為であるばかりか、病院の経営不振を招く原因になると説明した。そして、住民と医療者が腹を割って話し合う場がもたらした成果は想像を超えた。無診察投薬の要望、待ち時間への苦情も減り、なんと病院への寄付金まで寄せられるようになったのだ。 対立を回避する手段として始まった無名の話し合いは、いつしかナイトスクールと呼ばれるようになり、定期的に開催されるようになった。
住民の力で若手を育成する「研修報告会」への発展
2007年ごろになると、住民から「自分たちが病院をどう支えられるか」といった声があがってくるようになった。開院2年目の日々に照らせば、隔世の感がある風景だ。「10年以上に及ぶナイトスクールでの積み重ねが、気づきのようなものを授けていたのでしょう。いつしか住民の皆さんの中に、『自分たちこそ地域医療の最大の運営者である』との自覚が育まれていました」
住民の前向きな力は、医療の現場にもっと生かせるのでは――そして、ひとつの着想にたどり着く。「実は、かねてから地域に必要な医師を地域で育てたいと望んでいました。ある日、ひらめいたのです。当院の強みである住民の力を若手医師の育成に生かせばいいのだと」
同院には自治医科大学附属病院と岩手県立磐井病院から、年間約10名の初期研修医が約1ヵ月間の地域医療研修を受けにくる。「彼らに総合内科の奥深さを体験させようと外来診療を任せたのですが、若い研修医の診察を拒否する住民が多くいました。受診する側に立って考えれば、ある意味当然の反応です」 そこで、病院職員と研修医で行っていた研修報告会を2008年から「意見交換会」と改名し、住民に公開することとしたのだ。研修医一人ひとりが15~30分ほど、同院での研修内容や感想などを発表する。続いて住民の参加者側から、意見や問題点をフィードバックしてもらう。この仕組み、このやり取りが「私たちが医師を育てる」との住民の当事者意識を喚起した。
「意見交換会実施後、研修医の外来診療はとてもスムーズになり、診察室で患者さんが研修医を励ます光景さえ見られるようになりました。 素晴らしいのは、皆さんが『お医者さんも親御さんのいるお子さんなのだ』と考えてくださっている点です。『我が町でお預かりしたお子さんを、立派に育ててお返ししなければ』という気持ちが芽生えていったようです。手前味噌になりますが、そのようなメンタリティの芽生えは医療界にとって画期的な事象だと思います」 研修生を育てるにあたっては、どのような方針を持つか。「質問されたら答えますが、手取り足取り教えたりはしません。前を向いている医師であれば、自分が何を学ぶべきかは自分でわかるはずです。そんな若者にとって、聞いてもいないことをあれこれ教え込まれるのは迷惑なだけでしょう」