離島医療を描いた人気コミック『Dr.コトー診療所』(山田貴敏・作)の主人公のモデルとして広く名前を知られた瀬戸上健二郎氏は、展開した医療で地域(鹿児島県下甑<しもこしき>島)の安心と安全を守ったのみならず、モデルケースを示すことで、結果的に国民に離島医療への問題提起を果たしたことでも評価されるべき人物だ。
2017年3月、そんな瀬戸上氏が39年の長きにわたった同島での診療所勤務に幕を引いた。島を離れる3月末日には、島民総出による送別会が挙行されたとのこと。
一時代を築き、感謝の声と賞賛の声を集めた名医に、区切りを迎えた心の内を語っていただいた。
登るべき山が現れてしまったので、登らないわけにはいかなかった。
――『Dr.コトー』は、開業準備のために、行政と「半年間だけ」と約束して下甑島に着任したというのは、今となっては有名な逸話です。
瀬戸上 1978年のことですね。800坪の建設用地が取得済みで、医院の設計図もできあがっていましたよ(笑)
――勤務期間更新の手続きは、一度もなかったとか。
瀬戸上 そうですね。いつ辞めてもいいという状況のまま、結局39年やり続けることになりました。村役場の担当者には、「いつ逃げ出すかわかりませんよ」と憎まれ口を叩きつつの39年間でした。
――そうなった、要因は?
瀬戸上 おもしろかった。楽しかった。それで、抜け出せなくなったわけです。
――「抜け出せなくなった」というのは、地域への愛着ということでしょうか。
瀬戸上 そういうことでしょうね。この地での時間を振り返ると、前半は仕事中心の日々。必要とあれば、住民の方々とは距離をとってでも仕事を前に進めることを優先させました。
一転して、後半は、住民のひとりとしてどんどん地域に溶け込んでいきました。地域文化を共有する仲間として受け入れてもらい、ともに暮らし、必要なところで医師としての役割を果たす日々でした。
前半には前半の充実感がありましたし、後半には後半の楽しさがあった。総括すれば、まったく悔いなし。といったところでしょうか。
――先生は当時すでに、外科医としての名声も得て、順風満帆な中で開業計画を進めていたはずです。それを投げ捨ててもよいと思えるような医療の現場だったのですね。
瀬戸上 もちろん、葛藤もありました。「来年こそは辞めなければ」という思いが頭を巡っていた時期もあった。
しかし、それを上回ったのは、「目の前に山があれば登りたくなる」気持ちです。明らかに医療に飢えている島民、村民に確かな医療を提供することで返ってくる反応は、文字どおり「医師冥利に尽きる」ものでした。業務に関しても、治療の成績を上げる点に目星がつくと、次には施設・設備の不備に目が行く、地域医療連携体制構築の必要性に気づくといった具合に、次から次に「登るべき山」が現れたんですね。
――ただ、投げ捨てたものも大きかったのでは?
瀬戸上 登るべき山に出会ってしまったのだから仕方ないのですが、「いわゆる、出世はなくなるな」とは思いました。それはそれでかまわんだろうと取り組んでいたら、ある時期から取材されたり、誉められたりするようになって、「こんなこともあるんだな」と驚いたものです(笑)。
「昭和の外科」が長持ちしたという自己分析。遠隔医療を牽引しながら、他人事のように成果に驚く。
――瀬戸上先生の業績を考えるときに、先生が一流の外科医であるという点は見逃せません。当時の外科医療の常識に照らせば、専門家からも異論が出かねない、離島診療所での高度な手術を実施した。全身麻酔による肺がん手術などを次々に成功させ、周囲を驚かせながら納得させ、賛同させていった力量には感服するばかりです。
瀬戸上 外科医の自負、技術への自信は確かに大きな支えになりました。あえて踏み込んで吐露するなら、私のプライドは離島医である以前に、外科医としての立ち位置にあります。
情熱をもって取り組み修練した腕を、患者さんのために活かしたい。街で開業しても活きたでしょうが、離島の現場でもとてもよく活きた。地域医療の担い手としての達成感はたしかにえもいわれぬ魅力がありますし、私の中にもありますが、中核に外科医としての成就感があるのが特徴といえるかもしれません。
――それまで、本土の大病院に行かなければならなかった手術を地元で受けて、治してもらえる。住民の立場になれば、神の降臨にも等しい出来事だったのではないでしょうか。瀬戸上先生への信頼、診療所への信頼が日に日に強くなっていったのが目に見えます。
瀬戸上 幸いだったのは、それまでの修練で蓄積したものがかなり長持ちしたことではないでしょうか。私が学んだ昭和40~50年代の外科技術は、基本をしっかりと身につければ外傷から、がん摘出にまで通用しました。ひとりの外科医の手技でできることの幅がとても広く、それはまさに離島診療所に打ってつけだったわけです。私はそれを、「昭和の外科」と呼んでいますが、明らかに時代遅れとなったのは、つい先日のことです。
勉強に関しては可能な限り努力しましたが、現在のような情報環境も研修環境もない時代でしたから技術のアップデートは万全であったとは決していえません。にもかかわらず、着任以前にがんばって蓄えた財産が、約40年通用したのは時代の幸運だったのでしょう。
――「昭和の外科」などと謙遜なさいますが、下甑島で遠隔医療のノウハウを進化させたのは瀬戸上先生のお仕事です。見事に最先端技術を牽引なさった。
瀬戸上 時代といえば、遠隔医療の黎明から円熟の時代に立ち会えたのは意義深かったですね。CT画像をデータ送信すること自体が難事業だったところから、デジタル技術、ネット環境の進展とともに日進月歩の進化がありました。
鹿児島大学病院との間でスムーズなやりとりができるようになってみると、その存在意義は抜群でした。「放射線科の医師をひとり、確保できたようなものだな」と感慨に耽ったものです。彼らの読影技術でいくつもの命が救えたと感じています。