順天堂大学 医学部 整形外科学講座准教授、齋田 良知先生|DOCTORY(ドクトリー)

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順天堂大学 医学部 整形外科学講座准教授
齋田良知(さいた・よしとも)先生

プロサッカー選手と医師 2つの夢を追って

◆本気で目指したプロサッカー選手と医師の二刀流

ここで時計の針を少し戻してみよう。

いわき市は、齋田さんの生まれ故郷でもある。医師を志すはるか前、小学3年生の時にサッカーを始めた。福島県立磐城高校時代はサッカー部でフォワードとして活躍、1年生で国体の福島選抜候補に選ばれた。ところが選抜の最終選考を兼ねた新潟での合宿中にトラブルが襲った。膝が突然痛み出し、練習に参加できなくなったのだ。

「監督からは『使いものにならない』と言われて、ずっと荷物番をしていました。何日休んでも一向によくならず、熱も出てきてきたところでついに『帰れ』と……。痛い足を引きずりながらひとりでいわきに戻りました。病院に行くと膝の中に感染が起きているといわれ、即入院でした」。今も、明確な原因は分からないが、過剰なトレーニングと試合や練習で生傷が絶えなかったことが影響していたかもしれない、と言う。

膝を切開し、関節を洗浄する手術を受けた。持続洗浄の処置のために2週間の寝たきり生活。当然、国体選抜からは漏れた。しかし、この体験が齋田さんを医学への道に導くことになる。

「寝たきりで過ごしたために筋肉が落ち、膝は全く曲がらず、棒のようになっていました。そこからリハビリをはじめ、サッカーが再びできるようになるまでの過程で、こういう形でサッカーにかかわる仕事もあるんだ、治す仕事もあるんだ、ということを知ったんです。けがをきっかけに医師になるのもいいな、と」

しかし「サッカー選手になる」という子供のころからの夢もあきらめなかった。志望校選びのカギは「医学部に入ってもサッカーを続けられること」。そのため関東大学サッカーリーグに所属している順天堂大学を選んだ。一浪後、合格。もちろんサッカー部に入るつもりだった。門を叩こうとしたのは、順天堂大学蹴球部。全日本大学選手権優勝3回、OBには現・ジュビロ磐田監督の名波浩さんはじめ、日本代表経験者も数多くいる名門だ。齋田さんの入学時には、部員はスポーツ健康科学部の学生のみで、医学部からの入部者は一人もいなかった。「入学後、サッカー部の練習場が千葉県印西市にあることを知ったんです。医学部があるお茶の水から毎日通うのは難しいと思い、入部を断念しましたが、1年間だけでもやっていればよかったと今でも思っています」。結果、「医学部サッカー部」に入部した。医学とサッカーの両立という目標を追い、東日本医科学生総合体育大優勝など、サッカーでもしっかり結果を残した後、齋田さんはプロテストの受験を決意する。大学6年生の時だ。

「当時、日本でプロテストを実施しているチームの応募条件はすべて22歳までで、既に25歳になっていた僕が受けられるチームはありませんでした。ところがドイツのプロリーグ、ブンデスリーガのあるチームが日本でプロテストをやり、上限が25歳だと聞いて受けに行ったんです」

結果、練習生として合格した。そこからプロを目指す道もあるが、練習生であるうちは無給だ。「親は『6年間、医学部に行かせるだけで大変なのに、お前はまだそんなことを……』という感じでした。確かに、同級生が医師国家試験の勉強をしている時、僕はトレーニングをしてプロを目指していた。でもプロとしては受からなかった。今思えば、いきなりプロ契約なんてあり得ないので、練習生でドイツに行けば後にプロになれたかも、と分かるんですが、結局、プレイヤーとしてはそこで諦めました。そして医師としてサッカーとかかわることを決意したんです」

1994年1月1日、第72回全国高校サッカー選手権の開会式で、福島代表として入場行進する県立磐城高校サッカー部。背番号10番を付け、先頭で校旗を掲げるのが3年生で主将だった齋田さん=齋田さん提供
順天堂大学6年当時の齋田さん。医学部卒業アルバムの写真=齋田さん提供

◆大学を退職、無給で家族とともにイタリアへ

2001年、順天堂大学整形外科学講座に入局。医局には当時から、プロチームなどに帯同する「現場型」の先輩スポーツドクターが何人もいた。「病院にいてけがを治療するだけでは、けがをした後の選手の状態しか見ることができません。僕が現場型にこだわるのは練習や試合で何が起きて、選手やチームが何を求めているかを知りたいからです。一見、けがが治っているように見えても、実は完治していないケースもあります。それに気付くことができるのも現場にいればこそなので」

駆け出しのころから、ジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)のスポーツドクターを務めていた池田浩さん(現・順天堂大学保健医療学部教授、日本サッカー協会理事)に師事した。「どこに行くにも先生の後を、金魚のふんのようについていきました。日中は大学で診療がありますから、現場に行くのは夜や土日です。最初は休みも報酬もほぼゼロでしたけど、苦ではなかったですね」

スポーツドクターへの理解が深い順天堂の医局でも、その仕事は「アディショナル(付加的)なもの」。自身のけがの経験から膝を専門とする医師を目指しつつ、約10年間、大学で整形外科領域全般の経験を積んだ。一方で池田さんから現場型サッカードクターとしてのノウハウを継承。2008~09年にU18男子サッカー日本代表、U20女子サッカー日本代表、2010~15年は女子サッカー日本代表「なでしこジャパン」の帯同ドクターを兼務した。なでしこジャパンは齋田さん在任中の2011年、ワールドカップで王者の座を勝ち取り、2012年のロンドン五輪でも銀メダルに輝いた。

そして2015年4月、大きな転機が訪れる。

「チーム帯同中は多くの選手の主治医として治療を担当し、彼ら、彼女らがリハビリを経て再びピッチに立つ姿をベンチで見るという醍醐味を味わえました。そうすると『もう一つ次のステップに行きたい。知らないことを学びたい』と思い始めたんですよね」。そんな時に、ロンドンで開催されたサッカー医療に関連する学会に参加。大きな衝撃を受けた。

学会参加の医師たちは「選手のけがの予防と軽減のためにどう協力するか」を議題に、知識や経験の共有に努めていた。主に研究成果の発表の場である国内の学会とは、議論のテーマも医師たちのスタンスも大きく異なっていたという。「これは日本の外に一度出ないとだめだ……」。つてをたどってACミランへの留学を決め、イタリアに渡った。ロンドンでの衝撃からわずか8カ月後。なでしこをはじめとするすべてのチームドクターの職、さらに大学も退職した。

「すべてを断ち切らないと新しいものには触れられないと思ったので……。子どもも一緒に家族5人で行きました。無給になりましたが、貯金を使えばいいし、医師免許があれば食いっぱぐれないだろうと」

イタリア語は大学時代から少しずつ、学んでおり、意思疎通ができるレベルにはなっていた。「大学6年生の時に短期海外研修があり、同級生は大抵英語圏を希望してましたが、僕はイタリアに行きたくて。当時、整形外科の教授だった黒澤尚先生(現・名誉教授)に実習先を探してほしいとお願いしました。先生には『どうせサッカーだろ?』と言われましたが」

2006年ごろ、ジェフユナイテッド市原・千葉の試合にチームドクターとして参加する齋田さん=齋田さん提供
2014年、なでしこジャパンのチームドクター時代、松井トレーナー(左)、宮間あや選手と=齋田さん提供
同上
2005年11月、ジェフユナイテッド市原・千葉のナビスコカップ決勝で、先輩チームドクターの池田浩さんと。サポーターから送られた手作りのトロフィーを手に=齋田さん提供

PROFILE

順天堂大学 医学部 整形外科学講座准教授
齋田良知先生

2001年   順天堂大学医学部医学科卒業
2001年   順天堂大学整形外科・スポーツ診療科入局
2005年   アメリカ骨代謝学会Young investigator Award受賞
2007年   医学博士取得
2009年   順天堂大学整形外科 助教
2015年   AFC Young Medical Officer Award受賞
2015~16年 イタリア Istituto Ortopedico Galeazzi 留学
2018年   順天堂大学整形外科 講師
2019年   順天堂大学整形外科 准教授、いわきFCクリニック院長

【スポーツドクター歴】
2002年~  ジェフユナイテッド市原・千葉チームドクター
2008~09年 U18男子サッカー日本代表帯同ドクター、U20女子サッカー日本代表帯同ドクター
2010~15年 なでしこジャパン帯同ドクター
2015~16年 イタリア・セリエA「ACミラン」にてフェローシップ
2017年~  いわきFCチームドクター、いわきサッカー協会医事委員長
2018年   日本スポーツ外傷・障害予防協会設立、代表理事に就任

(肩書は2018年10月取材時のものです)

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