NGO「クロス」代表 楢戸 健次郎先生|DOCTORY(ドクトリー)

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今より少しでも良くなった社会を残し、死ねればいいなと思う。医師は、そんな思いを叶えられる仕事のひとつではないだろうか。

NGO「クロス」代表
楢戸 健次郎先生

自分のやらないことは、他にやる人がいるので気にしない。

楢戸氏が21歳の1966年に、アメリカに「家庭医ルネッサンス」と呼ばれる動きが生まれたのをご存じだろうか。臓器別医学に警鐘を鳴らし、地域に密着した家庭医を充実させるべきだとの提言を展開した「ミリスレポート」が発表された年である。ちなみに、日本は、アメリカから輸入された臓器別医学が勃興期から隆盛期にさしかかる頃だ。

臓器別信奉から家庭医(総合医療)の重要性に目を向ける動きは、たった今の日本の医療状況そのもの。単純比較で約50年前にはアメリカは気づいていたわけで、単純計算で日本は50年の後れがあると言えることになる。 50年前、楢戸氏はミリスレポートとその周囲の動きを知っていた。図書館に通い海の向こうの最新動向をしっかりとキャッチしていたのである。
「それを知り、私の夢である海外医療協力に必要なのは、家庭医になることなのだと明確になりました」
振り返ってもらった。

「はい、そうですね。当時、どの講座の教授に『家庭医になりたいのです』と申し上げても、『なんじゃ、そりゃ。いいから、うちの医局に来い』と返されたものです(笑)。
自分で学ぶしかないと、すぐに覚悟が決まりました」
医学部1972年卒の世代で、在学中から家庭医の重要性に気づいていた者は皆無ではないのか、先駆者ではないかと水を向けた。
「実践者としては、かなり早かった方だとは思います。ただ、先駆者は言い過ぎですね。教育者として家庭医を重視すべきと発言していた教授はいらっしゃいましたし、世界に目をむければ立派な先駆者がたくさん実在しましたから。

日本に限っても、岩村昇先生(『ネパールの赤ひげ』として有名)という大先輩がネパールで素晴らしい業績を残しておられました」
岩村氏とはのちに面識を持ち、交流を続け、「私の代わりにネパールに来てくれ」と冗談を向けられるような間柄になったとのことだ。

素朴な疑問が湧いた。時流にそぐわない夢、時流に乗らない歩みに不安はなかったのか。
「不安も悲壮感も、ありませんでしたよ。これは、性格と思うのです。『自分のやらないことは、他にやる人がいる。だから、自分の目標に邁進すればいいのだ』という達観に近い感覚が、あるのです。高校生の頃には、私の行動原理のようなものになっていました」

地域がひとつの病院だ。道は、廊下だ。ご家庭が病棟だ

ここまで記事を読み進めば容易に想像がつくはずだが、周囲が家庭医の存在さえ知らない環境のなか、卒後、独力で研修プログラムを構築して学んでいった。
「文献を紐解くと、海外の医療制度下ではおおむね、3年で家庭医としてひとり立ちする研修プログラムがスタンダードのようでした。3年で何を学ぶかを自分なりに組み立てました」

結論から言うと、多くの助言者、協力者の力を借りて実践した研修は7年半を要した。
相談の端緒となったのは、所属していた日本キリスト者医科連盟に集う先輩医師たちだった。楢戸氏はクリスチャンである。大学1年生時に洗礼を受けている。そしてその年に同団体にも加入している。
「連盟の先輩に誘っていただいた救世軍ブース記念病院での内科研修を皮切りに、札幌琴似ルカ病院(現 イムス札幌消化器中央総合病院)、恵庭西部病院、江別市立病院、久保田産婦人科病院、武蔵野赤十字病院などで、小児科、外科、麻酔科、整形外科、産婦人科、皮膚科などの研修をさせていただきました」

研修終了後には、先輩の誘いを受けて北海道新冠国保病院に勤め、4年半の勤務。
1984年、北海道栗沢町からの要請に応える形で、同町に栗沢町美流渡(みると)診療所を開設した。

「長い間思い描いていた家庭医像を具体的に形にしてみるにはよい機会と思い、お受けしました。結果的に21年いることになりましたね」
福島県生まれ、茨城県育ちながら、現在は「北海道が地元なので」が口癖の楢戸氏。北海道は、医師としての成長を受け止めてくれた第2の故郷となっているようだ。
「美流渡では、『地域がひとつの病院だ。道は、廊下だ。ご家庭が病室だ』と考え、患者さんには居心地のいいところにいていただいて、サービス提供者である私たちが移動する医療を作り上げました。今現在も、同診療所ではその精神を引き継いでくれています」

医師になった方々それぞれが、多くのニーズ、様々な分野の中から『これだ』と思えるものに出会ってほしい

そして21年後に、いよいよネパール赴任ということになる。

「実は、JCOSとの関係は医学生時代からのものです。以来ずっと、ボランティアとして医師を海外に送り出す仕事のお手伝いを続けていました。その間10年ほど、常務理事も務めています。遠い国に赴く医師の方々もご苦労ですが、送り出す側の仕事も山ほどあります。海外医療協力への情熱は一度として冷めたことはありませんが、裏方の責務を務めるうち、この立場でまっとうするのもありかもしれないと思うようになっていました」

たしかに、そうだろう。いかに情熱に満ちた医師が数多くとも、それを齟齬なく送り出し、帰郷までをつつがなくプロデュースする仕組みなくしては、膨大な情熱がカラ回るだけだ。目立たないところで汗を流す貢献者は、必須である。
ちなみに、「タイのスラムへの問題意識」は、送り出す側として多くの国の実情を見聞する中で、自らへの反省のひとつとして醸成した視点なのだそうだ。
そんな裏方貫徹への決意が、「送り出される側」に揺らいだきっかけは?
「卒後30年ほどかけていろいろな努力を続けてみると、私たち世代の働きが報われたようで、若い世代にかなりの数の家庭医が育っていました。そんなある日、先に述べた性格、行動原理の考えが頭をもたげたのです。『国内は若い方々に任せられそうじゃないか。では、今の自分がすべきことはなんだろう』と。

周囲に、『送り出される側』を体験してみたいのだけどと打ち明けると、皆、異口同音に『どうぞ』と言ってくださったので、決心がつきました」
努力と才能の両方に長けた神童が30年かけて培ったものが、ネパールの地で通用しないはずはなかった。2018年の現在、楢戸氏の存在はもう、日本とネパールの医療にとってかけがいのない架け橋となっている。今後の目標について聞いてみた。
「よく『活躍』などという言葉を使っていただきますが、70歳を超えた私が主役になるのは間違っていると思います。自覚の中では、私はもう主役ではありません。大切なのは、主役たる次の世代の人々なのです。ですからここから先の私の活動は、すべて『バトンタッチ』のためのワーキングです。ネパールで、日本で、次の世代を育て、引き継いでいくことが使命と思っています」

そんな若い世代へのメッセージを請うた。
「世界に目を向ければ、医療、医学へのニーズは果てしなくあります。未開拓な分野もたくさんあります。私は、海外医療協力が一番だなどとは思いません。先端医療でもいいし、地域医療でもいい。医師になった方々それぞれが、多くのニーズ、様々な分野の中から『これだ』と思えるものに出会い、一心不乱に邁進できることを願っています」
ここまでの医師人生を振り返っての感想は。

「最近、自己分析できたことがあります。それは、自分が、『今より少しだけでもよくなった社会を残し、死んでいく』を望んでいること。『社会を残し』が不遜ならば、それにちょっとでも貢献できたと思えるがんばりをして、でしょうか。幸いにして、自分が選んだ医師という道は、それが可能な職業だと気づきました」

あまりに愚問と思え、達成感への質問はそっと取材ノートに挟み、隠した。いきいきとした笑顔を見れば、日本語を解さない国の民にでもわかる明快な回答がそこあったからだ。

1990年ごろ
美流渡診療所診察風景
1992年ごろ
美流渡診療所前にて
2000年ごろ
研修医たちと美流渡診療所デイケア
2000年ごろ
栗沢町美流渡診療所研修の医学生と
2000年ごろ
岩見沢ファミリークリニックにて英国の家庭医の訪問を受ける
2000年ごろ
栗沢町美流渡診療所診察風景

PROFILE

NGO「クロス」代表
楢戸 健次郎先生

1945年 茨城県水戸出身
1972年 千葉大学医学部卒業
1972年 「家庭医」の研修を東京、北海道で行う
1979年 北海道新冠国保病院勤務
1984年 北海道栗沢町美流渡診療所開設(委託開業のちに医療法人へ)
2005年 日本キリスト教海外医療協力会から派遣されネパールへ
2011年 NGO[クロス]として、引き続きネパールで活動中

(2018年1月取材)

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