Dr.コトー・瀬戸上氏「日本医師会 赤ひげ大賞」受賞!―祝賀会レポ|DOCTOR'S NEWS|マイナビ【DOCTOR】

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Dr.コトー・瀬戸上氏「日本医師会 赤ひげ大賞」受賞!―祝賀会レポ

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マイナビDOCTOR 編集部からのコメント

Dr.コトーのモデルとして知られる、瀬戸上健二郎(せとうえ けんじろう)医師ほか、5名の医師が「第5回 日本医師会 赤ひげ大賞」を受賞し、2月10日午後、都内のホテルで表彰式が行われました。また、表彰式同日の夜には、長年交流のある齋藤 学氏(合同会社ゲネプロ代表 ルーラルジェネラリストプログラムディレクター 救急専門医)や、教え子たちにより盛大な祝賀会が催されました。ここでは、瀬戸上先生のこれまでの功績や祝賀会のようすをご紹介いたします。

■「かかりつけ医」として地域に密着して活躍する医師を顕彰

2月10日、「第5回 日本医師会 赤ひげ大賞」(主催・日本医師会、産経新聞社、特別協賛・ジャパンワクチン)の表彰式が東京都千代田区の帝国ホテルで行われました。
「赤ひげ大賞」とは、地域の医療現場で長年にわたり、健康を中心に地域住民の生活を支えている医師にスポットを当てて功績を顕賞し、広く国民に伝えるとともに、次代の日本を支える地域医療の大切さをアピールする事業です。

大賞を受賞したのは、

<第5回 日本医師会 赤ひげ大賞受賞 医師>

■瀬戸上健二郎(せとうえ けんじろう) 医師 75歳
(鹿児島・薩摩川内市下甑手打診療所前所長)
■下田輝一(しもだ てるかず) 医師 73歳
(秋田・山内診療所院長)
■大森英俊(おおもり ひでとし) 医師 62歳
(茨城・大森医院院長)
■明石恒浩(あかし つねひろ) 医師 63歳
(神奈川・「ザ・プラフ・メディカル&デンタル・クリニック」院長)
■大森浩二(おおもり こうじ) 医師 60歳
(京都・大森医院院長)

の5名です。無医村などの僻地で診療したり、外国人労働者の健康相談に乗ったりという献身的な医療活動が評価されました。
表彰式には皇太子さまが出席され、「それぞれの地域にとってなくてはならない存在として活躍されていると伺っており、そのたゆみない努力と取り組みに心から敬意を表します」と、受賞者をねぎらわれました。

■365日、24時間、年中無休で島の医療を支え続けた39年

受賞者の中でも最年長となった瀬戸上氏は、離島医療を描いた人気コミック『Dr.コトー診療所』(山田貴敏・作)の主人公のモデルとなった人物です。

鹿児島の農家出身の瀬戸上氏は、鹿児島大学で学び、国立病院の外科医長を務めました。1978年、開業のために病院を辞めたときに、鹿児島県の下甑(しもこしき)村から「半年だけでもきてほしいと」頼まれ、下甑島の下甑手打(てうち)診療所へ赴任することになりました。

赴任当時は、瀬戸上氏と看護師2名・事務員2名だけだった診療所。手術ができるような医療機器が整っていないだけでなく、医師と住民たちの信頼関係もまったくありませんでした。これまで赴任してきた医師は、みんないいかげんだったため、島の人たちは「こんなところで診てほしくない」と、大病をすると船で6時間(赴任当初)かけて本土の病院へ行っていたといいます。

「信頼関係は簡単にはできません、実績を示しながら時間をかけて作り上げていくものです」という瀬戸上氏。行政の支援を受け、麻酔機などを買い、救急に備えました。365日、24時間、年中無休で島の住人を診て、島の人たちとの信頼関係を築いたといいます。

『Dr.コトー診療所』の作者・山田貴敏氏は、離島医療に奮闘する瀬戸上氏の取材をしていたころを振り返ります。

「取材に行って『この作品はこの先生でやるしかない!』と思ったんです。ちょうどご飯どきでした、さぁ食べようと思った瞬間に、先生の家の上にあるサイレンみたいなものが鳴り始めたんですね。それが、うーーって鳴り始めたら、先生は『なんか急患みたいだ、ま、好きに食べてってくれ』って、奥さんに任せて診察に行ってしまったんです。そんな生活が365日続いたと思ったら大変ですよね」(山田貴敏氏)
半年だけのつもりだった島での生活でしたが、気が付けば39年が経っていました。

■瀬戸上先生の一喝で胸がスカッとしました!

マイナビDOCTORの『DOCTORY』コーナーに出演していただいた、合同会社ゲネプロ代表 ルーラルジェネラリストプログラムディレクター 救急専門医・齋藤 学氏は、瀬戸上氏が学会などで診療所を空ける際の代診を引き受けたのが縁で、長年交流が続いています。

齋藤氏はじめ、瀬戸上氏の教え子たちによる、受賞祝賀会が授賞式同日の夜、東京・銀座で開催され、瀬戸上氏を慕う大勢の人たちがお祝いにかけつけました。
漫画『Dr.コトー診療所』の作者・山田貴敏氏や、ドラマの脚本家・吉田紀子氏、劇伴の楽曲を手がけた音楽プロデューサーの吉俣良氏など豪華メンバーも出席しました。制作秘話や、島の人たちとの思い出話を語り、吉俣氏は楽曲の生演奏を披露。中でも瀬戸上氏や島の人たちと交流の深かった山田氏は、さまざまな島のエピソードを紹介。漫画『Dr.コトー診療所』は、瀬戸上氏との出会いなくしてはできなかったと話します。山田氏は、瀬戸上氏の取材をとおし、離島医療にかかわる医師のあるべき姿を見ました。

「先生と2人で学会に行くと、周辺地域の過疎医療の病院の先生たちが口々に、『研修医がこない! 研修医がこないのは、地域医療に無関心だから』と言う中、先生は『何をいっとるんだ!』と、声を荒げたんです。すると、『あんたはいいよ、Dr.コトーのモデルで人気があるから(医学生)来るから』といわれました。しかし、先生は、『いや違う、君らは何をやっているんだ。研修医はバイトじゃないぞ、こき使って返したら、誰だってそこに来ようなんて思わない、研修医に僕らが教えなきゃいけないのは、地域医療がどれだけ面白いかってことだ』そういうことをいわれたんです。(会場が)しーーんってなりましたね。胸がスカッとしました!! それ以外にも、別の学会で先生が詰め寄られたときに、『Dr.コトーのモデルの先生らしいじゃないか、漫画の中では船の上で手術したじゃないか、あんなウソ許しといていいのか!』っていわれたんです。そしたら先生は、『あんたバカか、漫画の中であの要素があるから、だからコトー先生は島の人たちに信用されるようになったんだ。そのストーリーさえ読めんのか? バカじゃないか?』といってやったという。やはり、胸がスカッとしました」(山田貴敏氏)

■イチローよりもストイックな節制生活

続けて山田氏は、瀬戸上氏の39年に渡る長き節制生活のエピソードも
「先生が初めて島の運動会に出られた日、捻挫された。そしたら次の年から出ない(笑)。
これは、捻挫して、すねて出ないのではなくて、もしも自分にけがをすることがあったら、手術するときに動けない。これでは困るという節制の塊。イチローを見ると、必ず先生を思い出すんですよ。イチローより偉いんじゃないかと、イチローはオフシーズンあるわけですよ。でも先生には島にいる限りはオフシーズンないわけですから」

■離島医療にはもっと面白いことがあって、もっと先がある

ストイックに離島医療に携わった39年――富士登山でいうならどこまで登ったのか?
「感謝祭のときに、先生に『離島医療も富士山の10合目まで登った感じでしょ』というと、『まだぜんぜん、まだ3合目だよ、離島医療にはもっと面白いことがあって、もっと先がある。だから山田君も続けなきゃダメだよ』その言葉がすごく重くのしかかっています」

と、エピソードを話し終えた山田氏は、
「5分ほどで書かせていただきました。先生おめでとうの似顔絵です、今の先生を描きたかったので。45年間本当にご苦労様でした! 先生、よかったら受け取ってください」と、似顔絵の描かれた色紙をプレゼント。5分で書き上げたとは思えない、さすがの似顔絵に会場から驚きの声が。


  • 漫画『Dr.コトー診療所』の作者・山田貴敏氏が描きたかった、現在のDr.コトー。


  • 音楽プロデューサー・吉俣良氏は、ドラマ楽曲の生演奏をプレゼント。

■娘がはじめて贈った両親へ宛てた感謝の手紙

また、祝賀会に出席できなかった娘さんからは、両親への感謝の気持ちを綴った手紙のサプライズも。朗読された手紙には、普段私達が見ている先生としての顔ではなく、父親としての顔も垣間見られ、そのエピソードに会場は涙と笑いに包まれました。

――お父さん、赤ひげ大賞受賞おめでとう。今回このような素晴らしい会が開催されるにあたり、齋藤先生から両親に宛てた手紙を書いてはどうかというお話をいただきました。「結婚式のつもりで思い切って書いてください」という言葉に背中を押され、両親へ初めて手紙を送ります。私が産まれる前から、島の医師として働いていたお父さん。

お父さん子だった私は、小学校のころよく診療所へ遊びに行っていたね。お父さんの診察を後ろから眺めたり、看護師さんたちとおしゃべりしたり、とてもいい経験をさせてくれました。家では決して仕事の話しはしないけれど、やはり島で生活しながら、医師として働くということはいろいろと大変だったと思います。愚痴ひとつこぼさずいつも前向きな姿勢で離島医療に挑んでいるお父さん、医師として島の医療に全身全霊を捧げ、島の人達から信頼されるお父さんをとても誇らしく感じていました。お母さんと何千回とケンカしたときも、私の話を聞いてくれてありがとう。いつも私の気持ちに寄り添ってくれてありがとう。私は小さいころから島育ちで、自然の中でのびのびと生活していたけれど、お母さんはいきなりの島での生活、大変だったと思います。

お父さんが学会で島から出ようものなら「あなた、今月何回目ですか? 島の人たちを置いてどこへ行くの?」と、お父さんを叱っていました。島の人たちをいちばん守っていたのは、お母さんかもしれないね。

ちなみに、『オロナイン塗っとけばなおる』もお父さんの口癖でした。どんな傷にもオロナイン塗らんとな。
お父さん、お母さん39年間、島での生活お疲れさまでした。お父さんの大きな大きな背中を見て育った私たちは少しでもお父さんに近づけるように、明るく楽しく元気よく毎日を過ごせるように生きていきたいと思っています。

~手紙より一部抜粋~

心温まる感謝の手紙に、瀬戸上夫人の目から思わず涙が……会場は感動に包まれました。

■いつも教える側じゃなくて、教えられてました

あと半年、あと1年……という間に39年。長きに渡り、下甑島手打診療所で島民の日常的な健康管理から、救急医療までを一手に担ってきた瀬戸上氏。島民からは続投を望む声も多くありましたが、後任も決定し、今年3月で任期満了を迎え、離島医師人生に幕を下ろします。

「島ではいろんなことがありましたけども、いちばん楽しかったことは、若い人たちが来てくれる、風を運んで来てくれる、爽やかな風。いつも教える側じゃなくて、教えられてましたね。ありがたかったと思います。
何かの機会で集まることができたらうれしいなと思います。なんていうのかな……、僕は学校の先生になったことはないからわかりませんけども、自分の教え子というのが社会的にみんな活躍していくってのはうれしいんじゃないでしょうかね。僕にとっては、みなさんが活躍ってのはものすごくうれしい! それはもう楽しみにしています。また一緒集まる機会があればいいと思います。今日は言葉にできません!!」(瀬戸上健二郎氏)

退任後も、後任の先生のフォローをしていくという瀬戸上氏。今後は離島医療人生の第2ステージに立ちます。

<瀬戸上健二郎先生 プロフィール>

鹿児島県肝属郡東串良出身。鹿児島大学医学部卒。同大付属病院に勤務後、1972年から国立療養所南九州病院で外科医長を務める。78年、下甑村(現、薩摩川内市下甑町)手打診療所所長に赴任し、39年間、離島医療につくす。専門は胸部外科で、肺ガンなどの離手術も手打診療所で成功させ、専門外の内科から産婦人科、獣医まで、幅広い分野を一手にこなしてきた。他村の診療所との診診連携や、全国の医大からの研修生の受け入れ、インターネットを活用した医療連携など、離島・僻地医療の改善のために日々尽力している。
第25回医療功労賞・中央表彰、平成12年(2000年)度藍綬褒章を受章。
第5回 日本医師会 赤ひげ大賞受賞。

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